プロ野球、ヤクルトアトムズ・ヤクルトスワローズの選手。
左投左打、ポジションは投手。背番号は22番。
福岡県出身。
小倉高、早稲田大学、社会人野球の大昭和製紙を経て、1971年、ドラフト6位でヤクルトアトムズに入団。
技巧派投手として入団当初から活躍し、1年目に7勝5敗、防御率2.08の成績で新人王と最優秀防御率のタイトルを獲得。
1972年、防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。
小柄なサイドスローの投手で、抜群のコントロールと緩急自在の投球術、機敏な動きからペンギン投法と呼ばれ、名投手としてファンに親しまれた。
1973年7月16日の阪神戦から9月9日の阪神戦まで81イニング連続無四死球のプロ野球記録を樹立。*1
1975年から1978年まで4年連続2桁勝利を挙げ、松岡弘、石岡康三、浅野啓司と共に1970年代のスワローズを支えた。
1978年、セ・リーグ優勝・日本一に貢献。
1981年、トレード通告されたが、「他球団でプレーするつもりはない」と断り、現役引退。
スカウトを経て現在はヤクルトスワローズの編成部長を務め、野球教室などにも参加している。
現役時代も「社会人時代の苦労を忘れたくない」とオフには牛乳配達などのアルバイトをしていた。
プロに入った理由は「金でも、名誉でもない。ただ一つ、王さん、長島さんと勝負したかった」から。引退のときにも「女房に言われました。『王さん、長島さんという最高の打者と勝負できてこんな幸せな投手っているの?』その通りですよ」とコメントしている。
いしいひさいちの漫画『がんばれ!!タブチくん!!』では、彼をモデルにしたと思われる『ヤスダ』投手が登場し、数々の魔球を披露している。ちなみにこれに対する彼へのお礼は『がんばれ!!タブチくん!!』映画のペアチケットだけだったらしい。本人も自分とは別物として考えていたとか。
*1:田淵幸一への敬遠四球で始まり、同じ田淵幸一への敬遠四球で記録が止まった。