手に何も持っていないこと。素手。
表題のとおりである。 1987年には明治学院大学の戸塚校舎近辺と保土ヶ谷駅近辺で遠隔地からの音攻撃があったのかもしれない。いまさらなのだが、明学大の少林寺拳法部にも音の奴隷になった者が練習中に襲ってくることは何度かある。けっきょく、彼らはバレて何もできなくなった。 コレと同じパターンだな、と私は少林寺拳法の再開する場合にそなえて武装をさらに強化することにした。 徒手空拳より武器携帯者の方が強いからである。 必ず遠隔地からの音に従う拳士がいる。顎の歪みを無くせば、彼らとは区別がつくから、顎の歪みを無くすことが重要かと。さらに、Facebookなどで不審だ、と思ったらドンドンその者の実名を挙げて書…
平常時とは暴力で襲われない時の話である。襲う目的で暴力を用いない攻撃者もいない時、この時が平常時である。 拳士は平常時、常に防御から始まる護身のみ思考しなければならない。コレは金剛禅社会だけではなく、他の社会においても同じことなのである。なぜ防御から始まる護身しか考えなくても良いのか? この理由は危険が無いからである。 したがって、平常時ではない場合は、先手、先の先手を打つ護身も考えなければならない。 平常時には仏弟子という立場を少林寺拳法の拳士は得ている。そのため、心身錬磨と正法護持の目的を持って言動を行わなければならない。危険が無い時には仏弟子である、とわからなければならないのである。 戦…