二年目の昭和十六年(一九四一)には二人の新任の先生が着任して、下宿屋へ三人で世話になることになった。 そして、この年の十二月に対米英宣戦布告となった。気になっていた自体が到来した。私は二十三歳になっていた。当時すでに食料や衣類の配給制が始まっていて、この地域のわずかな扇状地にも、さつま芋の苗さしが行われていた。 昭和十七年度(一九四二)には、新校長が着任した。新校長と私とは、母方の義従兄弟である。校長も下宿しなければならないので、校長と前年着任した若い先生と私の三人が駐在所跡の空き住宅へ、自炊ということで、住むことになった。飲用や風呂の水は、裏山から滲み落ちる水を溜めて置いて使った。清冽であっ…