日本の江戸時代に幕府が設置した教育機関。正式の名称は単に「学問所」と言う。 寛永7年(1630年)に林羅山が設立した私塾が源流となり、元禄3年(1690年)に第5代将軍の徳川綱吉の命により湯島に移転、1790年に幕府直轄の学問所となった。朱子学を正学として幕臣や藩士などの教育を行った。明治維新後に昌平学校、次いで大学校と改称したが、明治4年(1871年)に閉鎖された。
べらんめぇ口調のガキ大将 驚きの連続であった蝦夷地の調査 海軍伝習所そしてオランダ留学 国際法と万国海律全書 開陽丸の完成
この年の出来事 佐渡雑太郡五十八ヶ村で越訴 (柏書房「江戸時代265年ニュース事典」) 塚田与右衛門「養蚕全書」刊行 信濃上塩尻村の養蚕家塚田与右衛門が「養蚕全書」を刊行。それまで口伝だった養蚕技術を豊富な挿絵で解説した画期的な書で、それまで本場とされていた陸奥にかわり信濃の養蚕業が発展する礎となった。(柏書房「江戸時代265年ニュース事典」) 京桂川でお半と長右衛門の心中死体が発見 京都柳馬場の帯屋長右衛門と隣家信濃屋勘兵衛の娘お半の死体が桂川で発見される。身体が結び合わされていたことから心中とも思われたが、強盗が犯行を紛らわすための偽装工作とも。のちに人間浄瑠璃「桂川連理柵」の題材とされる…
東京ミッドタウンへ行き、サントリー美術館。 サントリー美術館 昼食にカフェ 加賀麩不室屋で、くるま麩のフレンチトーストを食べる。 カフェ 加賀麩不室屋(サントリー美術館内) | 加賀麩不室屋 儒教のかたち こころの鑑 日本美術に見る儒教 出品作品リスト https://www.suntory.com/sma/exhibition/visual/2024_5/list.pdf 儒教は孔子を始祖とする思考・信仰の体系で、五常(仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)関係を維持することを教える。 エレベーターで4階、第1展示室へ。 第1章 君主の学問古事…
既に来年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の番宣始まってるんだろうけど、「光る君へ」刀伊の入寇編以外は見てないこともあり、番宣もほとんど見逃していた。【 解禁❶ 】🎊特報動画(グローバルVer.)公開🎊#大河べらぼう を世界中の視聴者に届けられるよう、英語タイトル「#UNBOUND」と題し、特報動画を作りました!UNBOUNDの意味とは👉https://t.co/drmkSGxEB6 pic.twitter.com/ALX9MjAh3D— 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」1/5放送開始 (@berabou_nhk) October 26, 2024 タイトルの話に気付いたのは番…
贅沢品を取り締まった厳格な大名 Wikipediaより 皆さん、こんにちは! 今回は松平定信に関する雑学をご紹介します! 松平定信は、江戸時代の幕政を立て直すために大改革を行った政治家として知られています。 寛政の改革を主導し、質素倹約を掲げて財政再建に尽力しましたが、その政策は一部で庶民からの反発も招きました。 しかし、彼の政治的功績や朱子学に基づく思想は、後の世代に大きな影響を与えています。 この記事では、松平定信の生涯と偉業、そして彼にまつわる興味深い雑学について詳しく紹介します。 松平定信の生涯 松平定信は、江戸時代中期の大名、政治家であり、徳川家康の曾孫にあたる人物です。 定信は江戸…
『1573年(天正元年)、佑海によって開山した。 ただ、江戸幕府昌平坂学問所が編纂した『新編武蔵風土記稿』によると、開山は「秀海」、開基は「村民半六」としている。 』 東円寺 (杉並区) - Wikipedia ◆六地蔵 ◆観音堂 ◆稲荷社 ◆石塔 ◆鐘楼 ◆山門 医王山悉地院東円寺は、真言宗豊山派の寺で薬師如来像を本尊とし、江戸期に造られた聖観音像も安置されています。 開創は天正元年(1573)で、備後国の僧祐海(一説には秀海)が開山したと伝えられています。 本堂は、徳川家康が入府した頃に九州から出府した三谷氏の発願により改築したと伝え、さたに昭和7年に再改修したものです。 境内にある観音堂…
【宜蘭振拓株式會社 花蓮港稲住工場(現、花蓮文化創意産業園区)】 1913年、「宜蘭振拓株式會社」が当時の花蓮港廳(県庁に該当します)より1520坪の土地を借り受け、「花蓮港稲住工場」を設立しました。当時は,「紅酒」、「米酒」などを製造していました。 しかし、1944年,第二次大戰末期,連合国による台湾本土への空爆が始まり、花蓮駐屯の日本軍は、この工場の屋根の上に高射砲を設置し、アメリカ軍の艦載機、爆撃機向けて攻撃をしていましたが、敵機のはるか下の方で爆発している様な状態で、一発も命中しなかったそうです。逆に、敵機から見れば攻撃目標を誤ることなく爆撃でき、結局、全体の三分之二が破壊されました。…
聖橋 ニコライ堂を北に,JR中央線お茶の水駅。この辺りの水が茶の湯に適したことから「御茶の水」とよばれたが,目の前の現在の神田川がその名に相応しいかは明言をさける。ただこの辺りが私にとって別の意味で感極まる場所であった。それは『神田川』と『檸檬』であるが,御存知だろうか。南こうせつ(かぐや姫)の『神田川』は昭和の名曲として今でも耳にする不朽の名作であるが,同じほど私にとって名曲なのがさだまさしの『檸檬』だ。 梶井基次郎の小説『檸檬』からインスピレーションを得たというこの曲は小説と同じく「得体の知れない不吉な塊」に悩まされる。不安・憂鬱・不機嫌・怒りといってもよい。手榴弾にも似た形,強烈な酸味か…
知の巨人 荻生徂徠伝【電子書籍】[ 佐藤 雅美 ]価格: 748 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 父は館山藩主の徳川綱吉から言われなき勘気を被り、江戸を追放されて上総国の片田舎に流さる。子の荻生徂徠は乏しい書物を独学で読み下して、旺盛な向学心を満たしていた。すると突然に父が赦免され、徂徠は単身江戸に戻り、芝は増上寺の近くの豆腐屋の裏手の長屋に塾を開く。しかし徂徠は独学で学んだため、漢文をレ点、返り点を使わない「従頭直下」、頭から下に読む方法に固執し、来塾希望者も退散してしまう。しまいには食事にも不自由して、裏手の豆腐屋から施しを受けるほどの窮乏状態になる。 しかし徐々に独特の教え方と知識が評…
先日、ふと思い立ち、 お茶の水の高台にある、 ニコライ堂へ行った。 見学時間の13時すこし前に、 久しぶりの丸善で本をみる。 文庫のコーナーで、 「土佐日記」の堀江敏幸さんの新訳と、 「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」が気になった。 夏休みの少女が、お父さんと手をつないで 本を選んでいたのも、印象的だった。 この夏、少女は何を選んだのだろう。 ニコライ堂は、 正式には東京復活大聖堂で、 江戸時代の終わりごろ、 函館のロシア領事館つきの司祭として来日した、 ニコライ司祭によってつくられた正教会の聖堂。 教会のなかは、けっこう広くて、 天井のドームも高く、 閉じられた重厚な空間にもかかわらず解放感…
8/01 名取佐和子「銀河の図書室」実業之日本社/ISBN: 9784408538594*1 8/01 村上ロック 住倉カオス「怪談蒐集録「過呼吸」」扶桑社/ISBN: 9784594098285*2 8/02 新名智「雷龍楼の殺人」KADOKAWA/ISBN: 9784041152102*3 8/02 穂波了「月面にアームストロングの足跡は存在しない」KADOKAWA/ISBN: 9784041150689*4 8/05 陸秋槎「喪服の似合う少女」ハヤカワ・ミステリ/ISBN: 9784150020064*5 8/05 奥泉光「虚史のリズム」集英社/ISBN: 9784087718393*6…
序文・徳川慶喜の小姓 堀口尚次 平岡円四郎〈文政5年- 元治元年〉は、幕末期日本の武士〈一橋家家臣・家老並〉。徳川慶喜の小姓を務めた。攘夷派に暗殺された。 旗本・岡本忠次郎の四男として生まれ、16歳の時に旗本・平岡文次郎の養子となる。昌平坂学問所にて学問所寄宿中頭取〈学生寮の寮長〉に就任するなど若い頃から聡明だった。だが、人づきあいが苦手な性格が災いしてか「武術鍛錬のため」と2年ほどで学問所を辞めてしまう。その後10年近くは定職につかずにいたが、一時的に町方与力の助手をしたりすることはあったという。 徳川慶喜〈一橋家相続および改名前は松平昭致〉が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭は慶喜に諍臣(そ…
(目次) まえがき 第1章 家康はなぜ、幕藩体制を創ることができたのか 第2章 江戸時代、誰が「神君の仕組み」を崩したのか 第3章 幕末、「神君の仕組み」はかくして崩壊した 第4章 「神君の仕組み」を破壊した人々が創った近代日本とは 第5章 家康から考える「日本人というもの」 【第1章】 桶狭間の戦いで、今川義元が2万、織田信長は2千に足りない兵数で中島砦に移ったとあることから、「尾張は小国」というイメージがあるが、誤りだ。今川が支配していた駿河、遠江、三河で合計60万石に対し、尾張は50万石超の大国だ(P17) 今川家の戦略は、「三河のプリンス」家康を膝元において育て、強い結束力を誇る松平家…
先に、最終学歴も重要だと申し上げましたが、その相対的な重要性は年々低下していると言わざるを得ません。 最終学歴が保証する能力が、実際、当人に身についているのであれば、就職や昇進、処遇などの際に、これを判断基準の一つにすることは合理性があります。卒業まで学業を投げ出さずに、やり遂げたという努力もまた評価されてしかるべきでしょう。 しかし、実際には試験対策やレポート執筆などの「要領のよさ」がかなり影響していて、単位は充足した、卒業証書や学位は獲得したと言っても、その資格・学位に見合った実力が備わっているかは大いに疑問です。 「分数の計算ができない大学生」が揶揄されることがありますが、高校の教科書に…
はじめに 江戸時代、特に徳川吉宗による享保の改革は、日本の歴史上最も重要な経済政策の一つとして知られています。この改革は、単なる過去の出来事ではなく、現代の経済や社会の課題に対しても多くの示唆を与えてくれます。本記事では、享保の改革の主要な側面を詳しく分析し、そこから導き出せる現代的な教訓について深く掘り下げていきます。 経済停滞、財政難、社会の不平等など、現代社会が直面する問題の多くは、実は300年以上前の江戸時代にも存在していました。そして、徳川吉宗はこれらの問題に対して、革新的かつ包括的なアプローチで取り組んだのです。彼の政策は、単に一時的な対症療法ではなく、社会の根本的な構造改革を目指…
はじめに 江戸時代は、単なる鎖国の時代ではありませんでした。むしろ、日本の教育と学問が飛躍的に発展した、知的革命の時代だったのです。この時代、多くの偉人たちが独自の教育理念や学問体系を築き上げ、それが現代の日本の教育や文化の礎となっています。 しかし、なぜ江戸時代の教育や学問が今日まで影響力を持ち続けているのでしょうか?それは、この時代の偉人たちが、単に知識を蓄積するだけでなく、その知識を実生活に活かす方法を模索し、独自の教育システムを構築したからです。彼らの取り組みは、現代の教育課題にも多くのヒントを与えてくれます。 本記事では、江戸時代の10人の偉人たちの教育理念と学問的貢献を紹介し、そこ…