プロ野球選手・指導者・解説者。
通称「悲運の左腕」。
左投左打、ポジションは投手。背番号は33番。
1935年4月8日生まれ。山梨県生まれ、岐阜県出身。
多治見工業高校から1954年、阪急ブレーブスに入団。
高卒ルーキー1年目にして開幕投手に指名され、勝利投手となる。
同年、55試合に登板し20勝を挙げるも、新人王争いは宅和本司に敗れる。
1956年28勝、1957年24勝と2年連続20勝以上、1960年にも21勝を挙げる。
1957年7月23日、南海ホークス戦で9連続奪三振のプロ野球記録を樹立。
左腕エースとしてブレーブスの「灰色の時代」を支えた。
1967年、15勝をあげ念願のパ・リーグ初優勝に貢献。通算200勝を達成。
米田哲也と共に「ヨネ・カジ」コンビをなし、米田・石井茂雄と共に、日本プロ野球界の「三本柱」の元祖として知られる。
また、温和な性格で知られ、人望に優れていたことでも知られる。
1972年4月14日、東映フライヤーズ戦で公認野球規則8.04に規定された20秒ルール*1によりボールを宣告された。*2
1973年、現役引退。通算成績は254勝255敗。*3
1974年、投手コーチに就任。
投手陣を整備し、1970年代ブレーブスの黄金時代を支えた。
1979年、上田利治の辞任に伴い、監督に就任。
1981年、投手コーチに戻る。*4
1987年、フロント入りし球団調査部長に就任。
1989年、球団身売りによりオリックス・ブレーブスとなってからは再び投手コーチとして現場復帰。
オリックス・ブルーウェーブとなった後も1995年まで歴任。
1998年から1999年までは、中日ドラゴンズの二軍投手コーチを務める。
退任後は、野球解説者となる。
また、マスターズリーグ・大阪ロマンズの選手兼任コーチを務め、老齢ながら120km/hの球を投げ、大いに観客を沸かせた。
2006年9月23日午前6時26分、呼吸不全のため神戸市内の病院で逝去。
2007年、野球殿堂入り。
弟は梶本靖郎。