1925‐81年7月23日。静岡県生まれ。 1941年高等小学校卒業後海軍に志願。42年戦艦武蔵に乗り組み、マリアナ、レイテ沖海戦に参加。44年武蔵沈没にさいし奇跡的に生還。45年復員。復員後、天皇に対する自己の思いを日録の形で披瀝するが、信仰と敬愛の念から戦争責任追及へと変容し、70年から日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局長となる。思想の科学研究員でもあった。
戦艦武蔵の最期 (朝日選書 (197))
砕かれた神―ある復員兵の手記 (岩波現代文庫)
以前にも一度取り上げたが、小林よしのりの『戦争論』に、中国帰りの元兵隊で、戦争は「まるで海外旅行に行ってきたみたいだった」と、楽しげに語る親戚が出てくる。 戦闘で多少の怖い思いはしたものの、あとは毎日うまいものを食って楽しく暮らしていたというのだ。[1] 「終戦前は 朝はブタ汁 晩はブタの煮付け 野菜の煮付けとか 食べとった」 「食糧は豊富にあった」 (略) …と食い物の話ばっかりする 「終戦後はインフレになって 中国人と物々交換した」 「米をたくさん炊きすぎて 余ったのをおにぎりにして中国人にやると かわりにマントウをくれる」 「なしを5~6個くれることもある」 (略) 終戦後7カ月過ぎて …
『爆笑 陸軍二等兵物語』という、戦争体験者自身が描いた漫画がある。 作者の塚原平二郎氏は1920年生まれなので敗戦時点で25歳、陸軍に徴兵されて中国各地やベトナムを転戦している。漫画自体は創作だが、塚原氏自身の体験や兵隊仲間からの見聞をもとに描かれたリアルな内容だ。[1] この漫画を見ると、作者自身の上官である「中助」(ろくでもない中隊長のことを兵隊たちはこう呼んでいた)をはじめ、素質不良な軍人たちが中国各地の街や村でやりたい放題の悪事を働いている。 ひどい話ばかりだが、少なくとも作者はこうした事件を批判的観点から描いているので、こうした残虐行為を仲間内の場で自慢話のように語っていた元軍人たち…
考えてみれば、これは当たり前のことかもしれない。 16歳で自ら海軍に志願し、少年兵として戦艦武蔵の最期を生き延びた渡辺清氏は、無条件降伏という最悪の事態に至っても自決も退位もしようとせず、それどころか敵の総司令官マッカーサーにすり寄って保身を図る天皇裕仁の姿を見て、のたうち回るほどの怒りに震えていた。 1945年9月2日の日記:[1] (注:天皇が戦犯として処刑されるのではないかという噂を聞いて)だが、かりにもしこの噂が本当だとしても、天皇陛下が敵の手にかかるようなことはまずないだろう。縄をうたれた天皇陛下なぞ、たとえ天と地がさかさまに入れかわってもあり得ないことだ。だいいち、それまで天皇陛下…
記事の趣旨からずれるので前回記事では取り上げなかったのだが、『砕かれた神』の著者渡辺清氏は、敗戦の翌年、中国帰りの元兵士が自分の犯罪行為を自慢気に語る場面に遭遇している。[1] 1946年3月11日の日記: 夕じゃ(二時ごろの食事)に帰ったら、川端の火じろ端に宮前のほうの博労ばくろうが二人お茶を飲んでいた。肥った赤ら顔のじいさんと、こびんに大きな火傷の痕のある反っ歯の男だ。川端の種牛を見にきたらしく、はじめは牛の値がどうのこうのいっていたが、そのうちに戦争の話になっていった。おれは上がり框かまちに腰かけて夕じゃをよばれながら、反っ歯がじいさんにこんなことを自慢げに話しているのを聞いた。 「上海…
著者の渡辺清氏は1925年生まれ。16歳で自ら志願して海軍に入隊、大和と並んで世界最大最強と謳われた戦艦武蔵に乗り組んで米軍と戦った。 武蔵は1944年10月に撃沈されたが渡辺氏はかろうじて生き残り、その後配属された駆逐艦の艦上で8月15日の敗戦を迎えた。この日のことを、氏はある対談で次のように語っている。(『現代の眼』1962年12月号) 敗戦は挫折というよりも、ナメクジに塩をかけると溶けますが、あんなふうに自分自身が崩れていく実感がありました。 この書は、渡辺氏が故郷の村に復員した1945年9月から翌4月までの日記を収録したものだが、純粋に「現人神」昭和天皇を信仰する軍国少年のまま帝国軍人…
正徳3年2月29日。飛騨守が名古屋に到着する。近頃、出来町で大根泥棒の罪をきせて殺した仲間がまた1人牢に入る。上旬頃、蝦屋町渡辺清兵衛と弟同清右衛門が共に闕所となる。両人はともにトタン(米取引)をする者であった。津守様(松平義行)の金を250両借り、返済しなかったため。
写真:『無名の人 石井筆子の生涯より』 ■題名の由来「筆子の愛・愛の筆子」は、知的障害者福祉の先駆者である石井筆子の生涯に深い共感を抱き、そこに紡がれた彼女の愛と信念を表現している。彼女が生きた時代は、日清戦争から太平洋戦争までの戦乱が続き、社会的弱者が帝国主義や軍国主義によって切り捨てられる状況だった。筆子は、江戸幕末から昭和までの大きな変革の中で、愛と忍耐をもって社会的弱者を支える道を選んだ。彼女は最も弱い者たちに人間らしい幸福と安定をもたらすことを願っていた。この題名は、彼女の深い愛を強調しつつ、同時に彼女自身が愛の象徴であるかのように表現しているので、筆子の生きざまにふさわしい。彼女の…
皇居では毎年1月、「歌会始」なるものが行われる。 今年も19日に「和」なるお題で開催され、天皇徳仁は「をちこちの 旅路に会へる人びとの 笑顔を見れば心和みぬ」と、能登半島大震災などなかったかのような呑気な歌を詠んだ。 いや、大震災があったにもかかわらずではなく、あったからこそ、まるでそんなものなどなかったかのように予定通りに宮中行事を行う必要があるのだろう。 こうした宮中行事は、現実がどうであろうと、この国は今までもこれからも平穏無事で、為政者が責任を問われるような問題は何もない、という幻想を振りまくためにこそ行われるのだ。 そうした宮中行事の本質が最も露骨に現れたのが、敗戦の翌年、1946年…
島尾敏雄と吉田満二人の対談(「新編 特攻体験と戦後」中公文庫)、その後に、鶴見俊輔の文章が加えられている。それは次のような内容だった。 「ワレ果シテ己レノ分ヲ尽クセシカ」と、吉田満が海上に一人浮かびつつ自らに問うとき、その分とは日本帝国臣民としての臣道の分である。自分は、少尉任官後は、日本帝国臣民としての服従義務と、人間として生まれたものの倫理とのせめぎあいの場に立たされることがない。だが彼は、効果なしと考えられる特攻作戦を、自分なりにその無効を考え抜く。それが、彼の戦争参加の極相となった。この極相を記憶にとどめ、その意味を深めるのが、彼の戦後を生きる道だった。 沈没していく戦艦大和、吉田満は…