生田万と幸徳秋水をたみくさのために粉骨砕身し、最後には「逆臣」として扱われるという悲運に見舞われた。 彼らの信念となっていた国学と社会主義は方向性や時代は異なる。共通点はほとんどないかもしれない。それでも、彼らの行動原理と目標は民衆の幸せにあったことは間違いない。 民衆を思う、弱者に心を寄せるのは憂国である。2.26の青年将校たちも憂国の士ではあった。 生田万から始めよう。平田篤胤の門下生は晩期には諸国にわたり千人以上となったという。その数ある門下でも生田万は逸材であったそうだ。 その統治理念の進取性により館山藩から追放され、新潟の柏崎に移り住む。そこで私塾を営むのだが、天明の飢饉での幕府と藩…