Flowerの楽曲。
同グループの6枚目のシングルとして2013年12月25日にソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズから発売された。前作「太陽と向日葵」から約4か月ぶりのリリースとなるシングル。
NOTTVドラマ『僕らはみんな死んでいる♪』の主題歌。
作詞:小竹正人 / 作曲:Hiroki Sagawa from Asiatic Orchestra
白雪姫(しらゆきひめ)
1973〜1976に活動したアマチュア・フォークソング・グループ
フォークソング・グループ『白雪姫』の結成
白雪姫の結成は、1973年冬であった。その年のクリスマスに行われることになったコンサートに向けて高校のクラスメイトの中から3つのグループと1つのギターソロが出来た。これは、母校・東京港区高輪高等学校の秋の文化祭で開いた音楽ライブ喫茶“ふれあい”で、ラスト曲「人間なんて」を模擬店内全員の大合唱で燃え上がったことに端を発したものだった。横山秀幸&市原創組、萩原秀敏&土屋和之組が合弁して、その名を白雪姫とした。当時の人気グループ・かぐや姫にあやかってのものでもあり、コンサートで演奏する曲がかぐや姫の曲だった事も理由の一つであった。最初の練習場所は武蔵小山の横山邸であったが、追い出されて2回目は洗足池公園で行った。しかし、今よりも気候が厳しく、寒さに震えてギターなど弾ける状態にならなかった。メンバーは通りかかった屋台の石焼いもを買って暖をとった。その後は大井町にある、友人のドラマー・野呂瀬君(後の葡萄畑やチャーのドラマーとして活躍)の練習場所を間借りしてコンサートに備えた。コンサートは品川文化センターの大ホールで行われた。白雪姫のほかに、バンクス、ヒロト・グループ、クラッシック・ソロギターで関口正樹が出演した。
その沿革
第一回目の公演の後、大晦日を皆で柴又帝釈天に詣で1974年を迎えた。文化祭を期に深まった親交は、更に深まっていった。そこには常にギターがあった。だが年が明けて萩原秀敏が「白雪姫」を抜けることになり、グループは横山・市原・土屋の3人編成となる。高校3年の3学期、大学受験を向かえた結果、仲間は全員落選、(市原のみ合格するが、すぐ大学をやめてしまう) 3月、メンバーと関口の4人は一緒に武蔵小山・板屋製作所でバイトをした。昼休みには休憩室のステレオで当時発売されたかぐや姫の「三階建の詩」を聞いて、レパート創りに精を出す。メンバーは休みの日もだいたい共に行動した。卒業後、横山は実家が横浜の新興住宅地・藤が丘に移住することになる。予備校やバイトをするなか、やがて第二回目の公演の話が持ち上がる。日時は8月10日(1975)に決まる。関口は「白雪姫」のサブメンバーとしてベースを担当、まだ楽器ができなかった萩原(ヨシ)がホストとして参入することとなる。
「8.10ミッドサマーコンサート」と題して行われたこの公演は場所は前回同様の品川文化センターで、中ホールに変えての施行となった。出演は3人プラス2となった白雪姫、ヒロト・グループから抜けた石井彰英が新グループ・ハッピーボーイズを率い、佐藤博人と西村も新グループ・ディックトレーシーとして参加。白雪姫から抜けた萩原(ヒデ)はD・トレーシーのホストを務めた。録音は土屋和之で本人出演時はオート録音とした。石井のHボーイズはこの後自主レコード製作をし、その年の秋、Dトレーシーもハウスライブレコーディングを行った。やがて、コンサート活動のプロジューサーであった石井彰英は音楽留学するとアメリカに渡っていった。こうして、必然と次回公演の糸は途絶えてしまう。年の暮れ、またまたメンバーは柴又で除夜の鐘を聞き、新年を迎えた。この時奇遇にも「とらや」でDトレーシーと遭遇、合流して暗闇の江戸川端・矢切りの渡しあたりで一騒ぎ。
1975年、大学を断念し各々は、デザイン、電子、映画と各種専門学校に進んだ。しかし、時間を見つけては誰かの家に集う習慣は変わらず、傍らにはやはりギターがあった。10月、白雪姫グループは初のハウスレコーディングをする。白雪姫のほか、横山の妹であるタマミ&ミユキと学友・マミ、ミチコを召還し横山邸にコンパクトミキサー、オープンデッキレコーダー、エコーマシン等の器材を持ち込んで2日間に渡って行われた。
10月、土屋のもとへ関口、萩原ヨシ、萩原ヒデが集まり自宅ライブをする。これは修学旅行時に知り合った長崎のバスガイドさんに贈るために行われたものだった。12月、池袋にてコンサート。学校の関係上、土屋は不参加だったが、横山、市原、横山の妹珠美、美由起、関口、萩原でグループが組まれた。この時のグループ名は白雪姫であったかは定かではない。
1977年3月、関口宅にてレコーディング。参加メンバーは土屋、関口、ギターが弾けるようになった萩原ヨシである。皆の姉さん的だった赤木さんの結婚に贈る歌の収録だったが1曲では物足りないので、萩原、土屋のオリジナル曲なども含め数曲を収録した。萩原のオリジナル曲は、この当時起きた仲間内の大事件 である一人の女性の急死を悼む歌で、今日聞いても涙を誘う。それぞれの仕事先も決まり、映画製作上の録音業に入った土屋は横山グループの音楽公演活動に戻ることは出来なくなった。
1978年土屋は横山の妹・珠美と二人のオリジナル曲として「大人になれる」を収録し、音楽活動を終えた。横山、市原を中心としたグループは同じく1978年、音楽仲間であった西村が勤める大井町のシブヤ楽器のライヴ会場で公演をしたらしいということが遠い記憶に留めるところである。あれから30余年の時が過ぎた。 記:土屋和之