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紫香楽宮跡

(地理)
しがらきのみやあと

紫香楽宮跡は、滋賀県甲賀市にある遺跡。国の史跡に指定。

概要

香楽宮は、奈良時代中頃に聖武天皇が造営した都。
天皇は平城京で政治を行なっていたが、740年10月末に奈良の都を離れ、年末には恭仁京を造り始めた。
恭仁京の建設が進められている間、恭仁京から甲賀郡紫香楽村に通じる道(恭仁東北道)が開通し、天皇は紫香楽村に離宮を造り始めた。
天皇は、742年8〜9月、同年12月〜翌15年正月、15年4月、同年7月〜11月初めと、この離宮へたびたび行幸し、離宮の建設を励ましている。
このように、一方では恭仁京を造りながら、同時にもう一つの離宮・紫香楽宮の建設を進めたため、財政は逼迫し、743年の年末には、それまで足掛け4年間続いてきた恭仁京の建設事業が停止された。
744年になると、朝廷では難波宮を都にする準備を進め、早くも2月末には正式に難波を都と宣言した。
ところが、紫香楽宮の建設は引き続き進められ、743年10月に天皇は紫香楽宮で「大仏造顕の詔」を発し、甲賀寺の建設と大仏造りに着手する。
そして744年11月には甲賀寺で大仏の骨組みとなる体骨柱(中心柱)を建てる儀式が行なわれ、太上天皇(前天皇)も難波宮から紫香楽宮へ到着するなど、紫香楽は活気に満ちていった。
その勢いが持ち越された745年正月、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、宮殿の門前に立てるのが習わしの大きな楯と槍が立てられ、ようやく、紫香楽宮は正式な都になった。
しかし、4月になると、紫香楽宮や甲賀寺周辺の山々でしきりに火災が起こり、さらに美濃国(岐阜県)で起きた大地震の余震と思われる地震が相次いだことから、5月には早くも都が平城京へ戻ることになった。
紫香楽宮は、このように数年間めまぐるしく平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と都が移り変わった時期に、ごく短期間存在した都であある。

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