プロ野球選手・監督。通称「BOZO」。日系二世。
右投右打、ポジションは投手。背番号は18→30→33番。
1908年3月1日生まれ。ハワイ・オアフ島出身。
マッキンレー高校で1年先輩の田中義雄の指導で投手になり、ハイスクールに在籍しながらハワイ朝日軍で活躍。
1928年、日系チームのメンバーとして来日。本牧中から法政大に進学し東京六大学野球で活躍。
ノンプロ川崎コロンビアを経て、1936年1月9日、大阪タイガース創立と同じに入団。契約金は当時破格の3000円。
「七色の変化球」を武器に、タイガースのエースとて活躍。
1939年には主将として、48試合に登板し30勝を挙げる。
1940年、助監督を兼任。日本国籍を取得。
1942年、阪神の選手兼任監督となる。
戦後、ノンプロで活動していたが、9月に大阪タイガースに復帰。
1947年、再び監督を兼任。
1950年、毎日オリオンズ創立の際に別当薫、呉昌征、本堂保次と共に移籍。
同年、兼任で監督*1を務め、パ・リーグ初の優勝に輝く。
1953年、三度選手兼任で監督を務める。同年、現役引退。営業担当取締役に就任。
1955年、トンボユニオンズ、1956年高橋ユニオンズのコーチ兼任顧問となる。
1961年、大洋ホエールズの臨時二軍投手コーチに就任。
1963年、西鉄ライオンズのヘッドコーチに就任。外国人選手を呼び寄せる。
1964年、野球殿堂入り。
1965年3月5日、逝去。プロ野球葬が行われる。