細川京兆家の家督を巡る細川高国と細川澄元の戦いは、1520(永正17)年5月の等持院の戦いで大きな区切りを迎えます。 この合戦で澄元方の主力を担った重臣・三好之長が敗死し、同年6月、澄元は再上洛を果たせぬまま失意のうちに阿波勝瑞城で失意のうちに病死。 三好之長、細川澄元の死で、畿内における細川高国の優位が確定しました。 河内では高国に与する尾州家・畠山稙長の優勢となり、大和では細川高国、畠山稙長の強い働きかけによって筒井順興と越智家頼が和睦。 翌1521(大永元)年に順興は越智氏の娘を妻に迎えて、再び大和国人一揆の体制が固まりました。 細川高国のもと畿内の情勢は安定化するかに見えましたが、15…