高橋家の墓地にべったりくっ付くように能路家の朽ち果てた残骸が姿を留める。 ところが能路家ではなく能路氏と刻まれる墓石は恐らく為次の父能路小左衛門が亡くなる2年前の安政2年に建てたものと推測できる。 此の安政2年時点では為次は若干13歳の少年で父と共に此処後割甲の地でお爺さん・ひい爺さんに手を合わせたことになる。 そして其の真横に墓地を営む高橋家の当主政乃丞(のちに精路と改名)は由緒書で換算すれば安政2年には24歳の青年であった。 それ以来、能路と精路は背中合わせで墓地を営んだ。 少なくとも安政・万延・文久・元治・慶應・明治へと藩政期末に此の両人は少なからぬ人間関係で結ばれていたような気がしてな…