大手町、今はホテル山楽ですが以前はここに 郵政ビルが建っていたような。記憶曖昧。 この碑には気付かなかったです。 すぐ近くには郵便局、 今も変わらず「郵便の地」なのですね。
たかじょうまち。 本多の森ホールからほど近いところにある まちしるべです。 後ろの建物は保育園かな、平日は賑やかな声が 聞こえそう。 その昔は、鷹匠のまち。 【寛文の初めのころから、藩の鷹匠の邸地や 鷹部屋があったので、この名がついた】
ななまがり。 想像通り、複雑な町筋だったのですね。 もし家の近くにまちしるべがあったなら、 ピカピカに磨いたり汚れを拭いたり するんだろうなぁ、きっと。 それくらい愛おしい。 そのうちピン留めした地図を作りたいと 思っております。 目標! 【藩政時代、侍町の西に続いて折れ曲がった 町筋であることからこの名がついた。 三社七曲りともいった】
長土塀の穴水町児童公園にあるまちしるべ、 あなみずまち。 こんなにも桜が咲き誇る美しい場所だとは 思わなかったので、うれしくて。 まちしるべに導かれたのかな、ありがとうです。 今年も桜の頃に、行きます。 【加賀藩老臣長氏の家臣らが住み、 上家中と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の 穴水城に居たことにちなみ、明治になって この名がつけられた】 長家の屋敷跡は玉川公園あたり、 このあたりは長家一色だったわけですね。
ぎんなんちょう。 町名を書いた正面が車道側を向いているので、 向かい側からしか撮れず、なかなか難しかった。 もりの里に行くとき、いつもバスで通っていた道。 歩くの新鮮。 【藩士本多家の家士であった芝木氏の邸地が 当地にあり、同所にはイチョウの古木が あったことに因むといわれるが、当地には 芝木氏の邸地は見当たらない】 信憑性に欠ける話っぽいですが、町名になった ということは、きっと芝木氏の邸地は あったんですよ、と思います! 多分…
いしびきまち。今も石引町です。 ここもよく通るのですが、気づきませんでした。 ココにはないと、と思い込んでいたのかも。 石を運ぶために城まで広くまっすぐに作られた道。 当時はリスクのほうが大きかったようですが、 それでも石垣を築くため、作ったのですね。 【藩政の初め、金沢城の石垣を築くため 戸室山から切り出した戸室石を引いて運んだ 道筋であったのでこの名がついたという。 いしびきちょうとも呼ばれた】
ひょうたんまち。 安江町の交差点から、いつもは行かない方向へ。 明成小学校の脇に、静かに佇むまちしるべ発見。 瓢箪町、今もある町名です。 この奥にもうひとつまちしるべがあるらしいので、 それはまた次の機会に(^^) 【藩政の中ごろまでこのあたりは塩屋町の一部で この地には瓢箪をつくる者がいたから、 また瓢箪を売る店があったことから、 この名がついたといわれる】
やまだやしょうじ。 鱗町が近いので、このあたり一帯は魚屋さんの まちだったのですね。 幸町庁舎沿いの塀と堀が、まるで藩政期のよう。 と、勝手に想像してました。 井戸もありました、多分、井戸。 【藩政時代、山田屋という魚屋が数代にわたり 住んでいたところから、この名がついたという】
うろこまち。 旧名ではなく、今もある町名です。 そっか、このあたり加賀藩時代は魚屋さんが たくさんあったということは、威勢のいい声が 飛び交っていたんだろうな。 【藩政初期からの町名、新立町末うろこ町、 犀川うろこ町、いろこ町などとも呼ばれた。 当地に魚商が多く、鱗がよく見受けられたことに よると伝承がある】
ひゃくしょうまち。 幸町あたり、のんびりした雰囲気があり 好きなまちです。散策するのが楽しい。 【もと石川郡石浦村の農地であったが、 江戸時代前期(寛永8年以前)に町立てされた。 農民が住んでいた町ということから この名がついた】