柿木畠の市役所第二本庁舎敷地内にある標柱。 ここに金沢女学校(北陸女学校、 北陸学院短期大学)があったのですね。 詩人の中原中也が金沢に住んでいた時、 北陸女学校の附属幼稚園に通っていたとか。 寺町からここまで、けっこう距離があるけど 歩いて通ってたのかな… 金沢大学とか、金沢大学附属中学校とか、 このあたりには学校が集中していたことが、 わかります。 そんな昔に思いを馳せるのも、また楽し。
石引をバスで通る時に見つけて、 ずっと気になってました、これはまちしるべ? 台座も本体も同じ石を使っていて同化している。 字が儚げ、しかもひらがななので読みにくい。 江戸時代に描かれた「金沢八景図屏風」の中に 「笠舞残雪」と「戸室日出」が出てくるので、 その関連かと思われますが、勉強不足のため 詠まれている歌?を解読することが出来ません。 商店街の人に聞けばヒントがもらえるかな、 チャンスがあったら実行してみよう。 謎は続きます。
だいじゅめ。 読めない地名ナンバーワンかもしれないです。 2 月に探しに行きました。 森山でバスを降りて、雪に足を取られて 転びそうになりながら見つけた大衆免は 半分雪に埋もれてたので、説明書を撮るのは あきらめました。 今、写真を眺めるとヒンヤリしてキモチいい、 ような気がします。 【この付近は昔、神宮寺の大衆の免田で 税が免除されていたのでこの名がついたといわれ、 明治初年には大衆免を冠する町が十八あった】 なるほど、だからここには「大衆免竪町」と 書いてあるのか、納得です。
にしうちそうがまえぼり。 尾張町の表通りではなく、何本か入ったあたりで 偶然見つけました。 東と西、内堀と外堀、二重で城が護られていた 当時。小さな流れとなって残っている堀も ありますが、ここは堀はあるものの水の流れは ありません。 【金沢城防備のため、二代藩主利長が慶長四年に 高山右近に命じて掘らせた西側の内堀である。 旧上松原町から始まり、尾張町二丁目を経て 浅野川まで長さ千六百メートルで、城側に土居を 盛り竹藪を配していたが、今その面影は殆どない】
ひよけまち。 かわいい花々で彩られているだけで、 特別感満載に見えてしまうまちしるべ。 いやいや全部特別だろ、とツッコミを入れながら 写真を撮っております。 もりの里へ行くバスに乗っている時に見かけた まちしるべをいくつか収集、の日。 【藩政期、防火のため城下町の所々に空地を設けて 火除地としたが、ここもその一つであったので この名で呼ばれた。火避町とも書かれた】
おけちょう、です。 袋町のまちしるべから彦三方面へ少し歩き、 右へ曲がって少しのあたり。 【藩政の初め、藩の御用を勤める桶職人たちが 屋敷地を与えられて住んでいたので桶屋町と 呼ばれていたが、元禄のころからこの名になった】 響き的には「桶屋町」のほうがいいような気も するのですが、なにか理由があったのでしょうね。
大手町、今はホテル山楽ですが以前はここに 郵政ビルが建っていたような。記憶曖昧。 この碑には気付かなかったです。 すぐ近くには郵便局、 今も変わらず「郵便の地」なのですね。
たかじょうまち。 本多の森ホールからほど近いところにある まちしるべです。 後ろの建物は保育園かな、平日は賑やかな声が 聞こえそう。 その昔は、鷹匠のまち。 【寛文の初めのころから、藩の鷹匠の邸地や 鷹部屋があったので、この名がついた】
ななまがり。 想像通り、複雑な町筋だったのですね。 もし家の近くにまちしるべがあったなら、 ピカピカに磨いたり汚れを拭いたり するんだろうなぁ、きっと。 それくらい愛おしい。 そのうちピン留めした地図を作りたいと 思っております。 目標! 【藩政時代、侍町の西に続いて折れ曲がった 町筋であることからこの名がついた。 三社七曲りともいった】
長土塀の穴水町児童公園にあるまちしるべ、 あなみずまち。 こんなにも桜が咲き誇る美しい場所だとは 思わなかったので、うれしくて。 まちしるべに導かれたのかな、ありがとうです。 今年も桜の頃に、行きます。 【加賀藩老臣長氏の家臣らが住み、 上家中と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の 穴水城に居たことにちなみ、明治になって この名がつけられた】 長家の屋敷跡は玉川公園あたり、 このあたりは長家一色だったわけですね。