石引をバスで通る時に見つけて、 ずっと気になってました、これはまちしるべ? 台座も本体も同じ石を使っていて同化している。 字が儚げ、しかもひらがななので読みにくい。 江戸時代に描かれた「金沢八景図屏風」の中に 「笠舞残雪」と「戸室日出」が出てくるので、 その関連かと思われますが、勉強不足のため 詠まれている歌?を解読することが出来ません。 商店街の人に聞けばヒントがもらえるかな、 チャンスがあったら実行してみよう。 謎は続きます。
石引あたりを散策中に見つけたムスカリ。 鮮やかなブルーが遠くからでも目立ちます。 コロンとした見かけもかわいらしい。 派手ではないけれど、ムスカリを見つけると なんだかうれしくなります。 春を告げる花、ムスカリ。
この日は、どこをどう歩いたのかわからないくらい いっぱい歩きました。 二十人坂の桜は、楚々としてとても美しかった。 このあと、坂を下りたところで 思いがけず楽しい時間を過ごしました。 それはまたの記事で。
枝垂桜が素晴らしいと聞いていた慶恩寺。 満開の時期は終わってしまいましたが、 場所がよくわからなかったので、連れて行って もらいました。 静かな場所にあるのですね。 まだ残る花と、新葉の緑が混ざり合う桜も美しい。 《慶恩寺》 金沢市石引2-5-30
たかじょうまち。 本多の森ホールからほど近いところにある まちしるべです。 後ろの建物は保育園かな、平日は賑やかな声が 聞こえそう。 その昔は、鷹匠のまち。 【寛文の初めのころから、藩の鷹匠の邸地や 鷹部屋があったので、この名がついた】
つちとりば。 大学病院ヨコ、金大医学部の敷地内です。 正面ショットがこんな感じで、柵が…残念。 このあたりの土を使い瓦を焼いたり、 土居や堤防としても使用したり。 土質がよかったのでしょうね。 【藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を 焼いたところからこの名がついたといわれ、 また、土居や堤防を築くときにも使われたと いわれる。かつては土取場を冠する町が 三町あった】
嫁坂すぐ近くにある新坂。 嫁坂に比べると見通しが良く、とても道幅が 広く感じます。 車が通るから当たり前ですが^^; 平日昼間だったので、人影はまばら。 まちしるべに光が当たり、とてもいい感じに 輝いてました。 【加賀藩前期、嫁坂のあとにできたので この名がついた。昔は小立野新坂、 笠舞新坂とも呼ばれた】
とびうめちょう。以前の地名は石引、 2000年4月1日に町名復活しました。 辰巳用水と土塀、松の木が当時の景色を 残しているのでしょうか、見事です。 【前田対馬守長種にはじまる藩の老臣一万八千石 前田氏の下屋敷(家中町)があったところで、 同家の家紋「角の内梅輪」にちなみ、明治2年 この名がつけられた】
宝永2年5月9日。辰(午前7時)過ぎから文左衛門は源太左・瀬左・友弥・加兵・曽右とともに松軒屋敷へ出かけ、石曳きを見物する。それからいかつ(伊勝)山宗寿のところへ道中酒や食事をとりながら出かける。宗寿は外出中だったが、飯などを炊かせて休憩する。未半(午後2時)前、宗寿が帰ってきたので、また酒や食事を用意してもらう。とても楽しみ、戌(午後7時)頃に帰る。
二十人坂の名の由来は、二十人町と同じく 鉄砲足軽二十人が住んでいたから、のようです。 ゆっくり散策してみたいあたりです。 涼しくなったら^^;