宮内少輔、長宗我部元親の四男。 天正16年(1588年)秀吉の小田原攻めに父とともに参加し、下田城を落城させる。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に属す腹づもりだったが、手紙が届かず奇しくも西軍に属してしまう。戦後、井伊直政を通じて徳川家康に謝罪したが家臣の讒言により兄津野親忠を殺したことより、所領を没収される。 慶長19年(1614年)恩賞土佐一国に応じて、大阪入城するも翌年夏の陣で敗戦、捕らえられ六条河原で斬首される。享年40歳。
ご当地大名シリーズ第3弾は長宗我部 ご当地大名シリーズの第3弾は、戦国BASARAとの影響で近年になって人気も高い「土佐の出来人」こと長宗我部元親である。一時は四国を制するところまで勢力を拡張したが、長宗我部家自体はその後の中央の権力者の思惑で翻弄されていくことになる。 土佐の出来人・長宗我部元親 元親が家を継いだ時には土佐は8人の有力豪族が争っている状況であり、長宗我部家はその中でももっとも石高の低い家だった。しかし元親は中央の権力と巧みな外交を行うことでのし上がっていく。その1つが小牧長久手の戦いで、信雄や家康から出陣の要請を受けていたという。戦力的には劣勢だった家康としては、秀吉の背後で…
伏見城の戦いに関係する遺構として「 血天井 」が残されているお寺はいくつかあるのですが、中でも北区鷹峯の「 源光庵 」と大原の「 宝泉院 」に、ここ東山の「 養源院 」が有名です。 「 養源院 」は、三十三間堂の東側、ハイアット リージェンシー 京都の南側。 三十三間堂(蓮華王院)の 南大門 です。 三十三間堂の南側は人通りも少なく、いつもこんな感じですね。 東側から撮ったので、遠くに 京都タワー が見えます。 この門を入ると、左側に三十三間堂、右側に2つのお寺さんがあります。 1つ目が「 法住寺 」 後白河法皇 の御所「 法住寺殿 」の名残ですね。 北隣に「 後白河天皇法住寺陵 」への入口が…
慶長20年(1615年)3月には、大坂にて和議に納得できない浪人たちが暴発し、狼藉を働いたり、埋められた堀や壊された城壁を徳川家に無断で勝手に修復し始める等の事象が発生しだした。幕府はは豊臣家に対して浪人の解雇、もしくは豊臣家の移封(いほう)を命じた。 翌月には豊臣家がこの命に対して承服できない旨を伝えた。 再び徳川、豊臣との戦が始まろうとしていた。豊臣家は戦においてはどうしても浪人たちの力を借りる必要があるが、前回の事もあり金子(きんす)を浪人衆に与えた。しかし、堀が埋められた大阪城の防御力は零に等しく、豊臣を見限って去る者が続出し、浪人衆の総兵力は7万余りとなってしまった。浪人たちが離れて…
大阪冬の陣においては、谷町口(大阪城の南)に佐野道司、栗谷元種、大谷吉治らと共に布陣した。近くに有名な真田丸もあった。これは真田源次郎のみで徳川軍を釘付けにし、大損害を与えたと思われがちだが、実際には真田丸の半分ほどは盛親の手勢が着手していた。12月4日には真田丸にて井伊直孝(いいなおたか)や松平忠直(まつだいらただなお)の軍勢に大損害を与えた。冬の陣では終始優勢に戦っていた豊臣軍だったが、徳川方の用いた大筒(おおづつ)の玉が大阪城天守に命中すると恐れおののいた淀殿らによって浪人衆の知らぬ間に徳川方と和議を結んでしまった。 豊臣上層部の勝手な和議に盛親ら浪人衆は困惑するが、しょせん雇われの身の…