弘安八年(1285)十一月、安達泰盛とその一族が北条貞時を担いだ平頼綱に討たれた事件。
安達 貞泰(あだち さだやす、1280年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。 『尊卑分脈』によれば、父は安達宗景、母は紙屋河顕氏の娘。通称は陸奥太郎。 ▲【系図】安達氏略系図*1 historyofjapan-henki.hateblo.jp こちら▲の記事で紹介した通り、父・宗景については正元元(1259)年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考えれば、貞泰の生年は1279年頃よりは後と推測可能である。 但し、宗景は弘安8(1285)年11月の「霜月騒動」で討たれており、この時までに貞泰が生まれたと考えるのが自然であろう。 よって、貞泰の生年は1279~1285年の間と推…
安達 時盛(あだち ときもり、1241年~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。 ▲【系図A】安達氏略系図*1 『関東評定衆伝』建治2(1275)年条にある「城左衛門尉藤原時盛法師(秋田城介義景男)」のプロフィール*2によると、弘安8(1285)年6月10日、高野山にて45歳で亡くなったことが分かり(後掲【系図B】にも同様の記載あり)、逆算すると仁治2(1241)年生まれとなる*3。これに基づき、紺戸淳氏の論考*4に従って元服の年次を推定するとおおよそ1250~1255年となり、鈴木宏美氏のご推測通り、時盛の「時」は当時の執権・北条時頼(在職:1246年~1256年)を烏帽子親とし、その…
安達 時景(あだち ときかげ、1253年?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。 生年の推定 北条時宗の烏帽子子 脚注 生年の推定 ▲【系図A】安達氏略系図*1 historyofjapan-henki.hateblo.jp 系図類によれば、時景は安達義景の末子であり、義景が亡くなる1253年までには生まれているはずである。また、同じく飛鳥井雅経の娘を母とする兄の安達顕盛は1245年生まれと判明しており、次いで安達長景という兄が生まれているから、時景が生まれたのは早くとも1247年のはずである。従って、時景の生年は1247~1253年の間と分かる。 顕盛は文永11(1274)年に30歳…
安達 宗長(あだち むねなが、1270年頃?~1285年?)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。通称は九郎。 本項では、下図『尊卑分脈』に掲載の、安達泰盛の弟・安達長景の子について述べる。 historyofjapan-henki.hateblo.jp こちら▲の記事で父・長景の生年を1250年と推定した。これに基づいて親子の年齢差を考えると、宗長は1270年頃より後の生まれと判断される。 更に上図では母親を "信濃判官" 二階堂行忠(1221年~1290年)の娘と記しており*1、「行忠―女子(長景室)―宗長」各々の親子の年齢差を25歳位とすれば、宗長は1270年頃の生まれとなって辻褄が合う。 h…
安達 盛宗(あだち もりむね、1273年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。 本項では、下図『尊卑分脈』に掲載の、安達泰盛の末弟・安達時景の子について述べる。泰盛の子については 安達盛宗 (越前守) - Henkipedia を参照のこと。 historyofjapan-henki.hateblo.jp こちら▲の記事で父・時景の生年を1253年頃と推定した。これに基づいて親子の年齢差を考えると、盛宗は1273年頃より後の生まれと判断される。 historyofjapan-henki.hateblo.jp こちら▲の記事で述べた通り、安達宗顕については生年が判明しており、弘安7(1…
安達 盛宗(あだち もりむね、1255年頃?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。安達泰盛の庶長子。 史料における安達盛宗 越前守任官と生年について 脚注 史料における安達盛宗 ▲【図A】『蒙古襲来絵詞』より 弘安4(1281)年6月の「弘安の役」で、蒙古兵の首を差し出す竹崎季長(左)の戦功報告を受ける「肥後国守護人 城次郎 盛宗」(右上) *肥後守護であった父・泰盛の代理(守護代)として肥後に下向していた。 これ以外に、安達盛宗についての史料は次の3点が確認できる。 ●【史料B】弘安7(1284)年11月25日付「関東御教書」(『新編追加』)*1に鎮西神領返付の相奉行(合奉行)の一人…
古文書入門です。 『朽木家古文書』一四七号文書です。これはまた国立公文書館の写真と『史料纂集 朽木文書』の番号が一致しています。 佐々木頼綱譲状案 朽木家古文書 国立公文書館 では翻刻です。 次男五郎源義綱ニ譲渡所領事 一、近江國朽木庄〈承久勲功、祖父近江守信綱拝領所也〉 一、常陸國本木郷〈弘安勲功、頼綱拝領所也〉 右彼両所ハ勲功庄也、小所なりと(登)いへとも 他に(尓)ことなる(流)所領なり、そ(楚)の(乃)むね(袮)を存知して 知行すへ(遍)き状如件 弘安十年二月廿八日左衛門尉源頼綱 御在判 右承久ノ比より寛永四年迄ハ四百十年ニ成 寛永年間に書写されたことが奥書よりわかります。「案」という…
外交で圧力がかかると、内政で応力(ストレス)が生じ、以後、思わぬ形で、国家が変容する――というのは、古今東西を問わず、普遍的に当てはまる原理といえるでしょう。 日本列島に長らく存在してきた国家(と目される組織)も例外ではありません。 この国家の場合、外交での圧力は、主に朝鮮半島を経由してかかりました。 もちろん、近世以降は朝鮮半島経由のみ圧力がかかるというわけではありませんでしたが、朝鮮半島が日本列島に地理的に最も近隣しているという事実が暗に示す通り、朝鮮半島の存在感が、少なくとも象徴的な意味合いとしては、小さくありませんでした。 朝鮮半島経由の圧力として、きのうまでの『道草日記』で触れたのは…
さて、まだ義元公は登場しないのだが、我らが今川氏草創の話に移る。 承久の乱ののち、守護として三河に地歩を得た足利義氏は同国内に一族を扶植していき、三河は本貫地の下野足利庄と並ぶ足利氏の地盤となっていく。その三河足利党の頭領とでも呼ぶべき存在が、義氏の庶長子、長氏の吉良氏である。 この吉良長氏が晩年に吉良庄から分かれた今川庄を隠居所として、その今川庄を二男の国氏が相続して今川四郎を名乗ったのが今川氏の発祥である。東海の雄、今川氏も草創期は僅か3ヶ村の地頭として始まったのである。 霜月騒動 その今川四郎国氏の跡を継いだ基氏が弘安8年(1285年)の霜月騒動で功を立てて遠江引間荘の地頭職を得て今川氏…