私が初めて香港の啓徳空港に降りたのは一九八六年八月二三日のことだった。二十歳と半年、一年間限定の交換留学生という気楽な身分だった。眼下の電柱や看板をなぎ倒し、ビルの屋上にひらめく洗濯物をひっかけそうになりながら滑走路につっこんでいく、あの感じ。天国でも飲んだくれていたヨッパライが雲の上から蹴飛ばされ、ぽーんと下界に放り出される、そんな感じ。 これから人間世界にぶちこまれるんだ。 理屈でも観念でも何でもなく、いきなり視覚にそう訴えかけられたことを今でも覚えている。そしてその感覚が、私の香港に対する印象を決定づけてしまったのである。 星野博美『転がる香港に苔は生えない』 啓徳空港に着陸してみたかっ…