夢の持つ牙

 tetsu23さんから昨日の記事8/26日の日記に関してトラックバックを頂いた。そちらの記事の中で

夢日記をつけることにより自分のストレスや状態を把握できる、と積極的に夢日記を書くことを勧める話は聞いたことがあったが、夢日記を否定的に捕らえている話は初めて聞いた。

 とおっしゃられていた。
 これは同じことを逆の方向から言われているのではないだろうかと、わたしには感じられた。わたしはこの手のことの専門家でもなんでもない。そうしたことを研究している人々からちょっと話を聞かせてもらったり、あるいはいくつかその関係の本を読んだり、単に自分の体験からの実感として話しているだけである。なのでこれが正しいのかどうか、まったくなんの裏づけもない。だがそのおぼつかない背景だけから考えるに、「自分のストレスや状態を把握」するために夢日記をつけることと、夢日記を書くことにある危険性とは矛盾しないのではないかとわたしには思われる。
 それなり健康な人にとって、夢を思い出そうとすること、さらには夢を書く、語ることでその夢の機能を妨げるのは、おそらく害になるだろう。心の中の、本来ならあまり意識の上にものぼらないような部分に追いやられ、つまり忘れてしまうことが必要なことを、無理に意識に留めようとすることに他ならない。夢に見られて、その上で忘れられることが必要だったその物語を、健常な意識の上に留めようとすることは、自分の心の働きを触ろうとすることでもあるのだ。
 だがもしこうした夢の機能だけではどうにもならないようなものを抱え込んでしまっている人や、さらには夢の機能自体が不全を起こしていたり、あるいは日常意識されないような心の片隅に追いやられた物語自体が現在の問題の原因になってしまっている人にとっては、夢日記をつけるということも、それを解決するためのあり得る手段となるのではないか。夢を言葉にすることで既に忘却してしまった原因を突き止めたり、あるいは立ち行かなくなった夢の機能に働きかけたりもできるのではないかと思う。健全な心ならば、その働きに触ることは害にしかなりえないかもしれないのだが、もし何かの困難を抱えているのなら、その働きに触ることで、それを回復させようとしたり、あるいは直るとまではいかなくとも正常な心の働きに代わるようなことを、夢日記をつけることでできうるのではないかとも思う。
 もちろんその場合でも、健常な人にはおそらくは害にしかならないだろうのと同じで、悪い方へ転がってしまうことも十分にあり得ることだろう。危険なことであるのは確かなのではないだろうか。

消える人々

 昨日去っていった知り合いたちはいつも四人のグループで遊んでいた。その四人が一緒にいなくなったのだが、今日になってからもう一人が彼らについていったことを知った。人々はどんどんいなくなる。

日本酒あれこれ

 TVをつけたら、ソーホーで一般参加可能な日本酒の利き酒イベントをやっているとあった。今ニューヨークでは日本酒がはやっているらしい。カメラに映っているのはごく普通のニューヨーカーばかりのようで日系人らしい人は見当たらない。わざとそういう人たちを選んで画を撮ったのだろうし、どちらにせよ平均よりはいわゆる日本びいきの人々なのだろうが。ドイツ系と見える年配の女性が、日本酒はレストランでよく飲むが"sometimes good, sometimes bad"だと言っていた。ニュース用に作った発言なのかもしれないが、そうなんだろうなあと思った。日本酒はほんとうに"sometimes good, sometimes bad"な酒なのだ。
 まず日本酒自体のばらつきがひどくある。旨いのはほんとうに旨いがまずいのは救いようがないほどまずい。そして同じ年、同じ銘柄の酒でも、保存や飲み方などによってぜんぜん違う。まずく飲めばどこまでもまずくなってしまうし、だがおいしく飲めば、これほど旨い酒は無いともいえるほどに旨い。ほんとうに気を遣わされる酒なのだ。
 インタビューに答えて、「いつもは燗をしていたけれど、これからは冷やでいただくわ、その方がスマートだから」と答えている人がいた。おそらくイベントの主催者などが簡単な日本酒講座みたいなことをしたのだろう、そこでそう教えられたのだ。だが、これは必ずしも正しくは無い。もちろん特に高い酒などで、燗をすると壊れてしまうものが多くある。そのことを言っているのだろう。だが一方で、燗をすることで初めて味がひらくものもある。さらに言えば同じ酒でもどのように飲むか、何で呑むかで温度は変えたほうがよい。だいたい燗とひと口に言ってもいろいろあるのだ。だがまあ、入門としては、とりあえず冷やで飲んでみろ、と言っておくのは間違いが少ないのかもしれない。燗はどちらかと言えば、日本酒の飲み方として高等技術に属するだろう。燗の仕方、割り水の仕方を知らなければどうしようもない。
 ところで、わたしは日本酒は何かの料理やつまみと呑むものだと考えている。これはもしかすると偏見であるのかもしれない。自信はあまりない。だが何かの食べものとともに味わうことで、最もその長所が花開くような酒であると思っている。あるいはそれだけで呑むように作られた酒というのもあるのだろう。単にわたしの好みというだけなのかもしれない。
 その一方でわたしは酒を呑みながら何かを食べるということができない。呑み始めると、後は何も食べずただ呑むだけになってしまう。なので日本酒が好きであるにもかかわらず、飲むことは少なくなってしまう。日本酒、洋酒、その他の酒であれ変わりなく何でもたいていいただくのだが、そのせいで強めの洋酒に偏りがちだ(ビール、ワインはやや苦手である)。最近はリキュールをストレートでか、マオタイなどを飲むことが多い。久しぶりに旨い日本酒を、あまり食べられないとはいえ、旨い肴で呑みたいと思う。
 それはともかく、なぜこうしたイベントを、日本でもやってくれないのか。

忘れられなかったもの

 上の記事で引用させていただいたtetsu23さんの日記において、夢を忘れてしまうこと、そしていつまで経っても覚えている夢について書いておられた。夢に限らず、忘れるというのは不思議なことだと思う。わたしは異常に忘れっぽい。反面、いつまでも覚えていることもある。
 たぶん程度問題で、誰でもそこそこはできると思うのだが、わたしは昔から写真記憶(映像記憶)がちょっとだけできる。ちょっとだけというのは、記憶する対象をほとんど自分で選べないということだ。だから勉強など実利のあることにはまったく使えはしないのだ。ただ偶然に選ばれたような、ほとんど意味のないような、ある瞬間にわたしの瞳の中に飛び込んできた光景を、頭蓋の金庫にしまったアルバムに整理したかのように、画像として覚えこんでしまうのだ。時々こういうことが起こる。老化だろうか、十代の頃に比較して最近では少なくなったのだが、それでもたまに写真が焼きついてしまうことがある。だが脳裏に焼きつくと言うクリシェがあるように、こうしたことは結構誰でもあるのではないか。珍しいことではないような気もする。その頻度が多少高いという程度だろう。そしてまたこの延長線上に、目にした風景をほとんどなんでも覚えこんでしまうという、異常な能力を持った人もあるのではないだろうか。
 こうして記憶してしまった光景の中には思い出すのが痛いものも数あるし、なぜこんなものを覚えているのかまるで分からない馬鹿みたいなものもある。読書中のこともある。学校のこともある。昔受けた演習の授業中、開いた本のページと、それを置いている机、天井の蛍光灯を遮るわたしの頭が影を落としている。ページには文字が並んでいるのだが、読むのは難しい。うまく説明できないのだが、何というか、頭の中で一生懸命その文字を注視しようとしないと読めないのだ。これは非常に疲れてしまう。そんなことをするよりも、本を開いたほうがはるかに建設的だろう。
 映像が一枚の写真ではなく、ほんの短い間だが、動画で記憶されているものもある。もちろん、これがほんとうに動画といえるのかわたしには確証がないのだが。一枚か、あるいは前後する数枚の絵を元に、思い出す時にそれを動画様のものに編集しているだけなのかもしれない。それを裏付けるように、こうした動画の記憶には、音がついているものはない。一枚絵としての記憶には、たまに音がついているものがある。短いもの、ちょっとした長さのあるもの、さまざまだ。その記憶の時に実際に鳴っていた音であるのかは分からない。どうもとてもそうは思えないようなものが多くある。まったく関係ないのではないか。
 音よりもむしろ、変な話と思うのだが、匂いのついた記憶の方が多い。半分以上のこうした記憶に何かの匂いがついているのではないか。音と同じように、その時に実際嗅いだ匂いかどうかはわからない。匂いはの記憶は、これは何の匂いだと名指すことができないようなものが多いので、結局確かなことは分からないのだが。
 なんにせよ記憶は分からない。どれだけ意味のないように思えることも、それをいまだに覚えているということは、何かわたしにとってだいじな意義があるのだろうか。覚えておきたいことも、あるいは覚えておいたほうがよいというようなことも、わたしはすぐ忘れてしまうというのに。わたしは非常に忘れっぽい。冗談にもならないが、両親の顔すらぱっと思い出すことができないのだ。
 夢にしても同じようなものだ。tetsu23さんも書かれていたように、なぜそれを忘れるのか、またなぜそれを覚えているのかわからない。それ以上に分からないのは、そうして見た夢を、なぜどうしても語らなければならないこと感じるのであるのかだ。すべての夢を語るべきことと感じているわけではない。だがその中には、どうあってもそれを語らなければならないものが確かにある。たいてい文字にしてみても、あまり意味のないような、単純でくだらない、馬鹿みたいなことばかりである。なぜそれが選ばれたのかまったくわたしにはわからない。だが確かに、語られなければならないことなのだ。この感覚はどこから来るのか。

胡蝶の夢

 ひとつだけ、そのヒントかもしれないと感じていることがある。わたしが見る夢は必ず現実感にあふれているのだ。わたしが普段暮らしている生活よりも、よほど生々しく、現実らしい。一方でこの日常の方がよほど夢のようである。どこにも生活感がなく、張り詰めた緊張がない。低血圧でただよっている生腐れの死体のようだ*1。わたしは生きている気がしない。一方で死んでいるとも思えない。半端なままで何もかもを先延ばしにし続ける生き腐れた死体に過ぎない。置いていかれてしまったものに、特有の精神状態なのだろうか。バートルビーの語り手、白鯨の語り手、こうしたものたちのように、死にぞこなって置いていかれてしまったものは、もはや何かを自分を崩壊させながらでも語ることしか残ってはいないのだろう。
 夢にはいつも震えるような現実感がある。それがわたしにはいまいましい。本当に生きている、生きるべき、この日常よりも、はるかに身に迫るような生々しさがいつもあるのだ。そこに何かがあるというような質感が離れないのだ。だからわたしが見る夢は常に悪夢となってしまう。わたしはこの現実感に耐えられない。夢のプロットだけ抜き出して誰かに話したとしたら、そのほとんどは、なんてことのない普通の夢やあるいは夢とすら思わないかもしれないだろう。平凡なものだ。だがそこにある触れるような現実がどうしてもわたしには辛いのだ。そのあまりに飛び起きてしまうことも少なくない。なぜわたしはそうしたものに耐えられないのか、過去を過去とできていないからなのか、その整理できていないものの中に無理やり引きずり戻されるからなのか、どうしたらよいのか、どうしようもないのか。わたしにできるのは、置いていかれたものたちがたいていするように、語ることしかないのだろう。

*1:そういえば中学の校長のあだ名は「生ゾンビ」だった。彼はわたしが三年の時に他界した

よくある予定調和として

 授業の準備を終えて出かける支度をした。シャワーを浴びて髪を乾かす。そろそろシャワーでは風邪をひきそうなくらい肌寒くなってきた。もともと風呂につかるのが好きで、シャワーはあまり好みではないので一向構わないのだが、忙しい時にはやはり不便だ。身支度をして、充電しておいた携帯をカバンにしまおうとすると、後輩からメールが来ていたのに気がついた。昼前に出したものの返事だった。「今日の授業は休講になりましたよ」「関本は許してあげてくださいね」。さて困った、何をしようか。とりあえず喫茶店にでも行ってコーヒーでも飲んでこようと思う。