批評ギルドの存続を希望する

 批評ギルドが活動を一時停止するかもしれない。理由は、スレッドオペレーターである熊髭b氏の引っ越しに際して、引っ越し先に充分なネット環境がないのでアクセスひいてはスレッドの管理が困難になったためだという。

 批評ギルドのこれまでの活動には、フォーラムにおける批評活動一般の停滞した状況を打破する目的があった。

 私はギルド創立以前から批評活動をしていた(現在は私生活が忙しいために活動を縮小している)が、はじめたころには緊張の連続があった。すでに拙文をしたため回答を示したが、本木はじめ氏から「批評の意義とは何ぞや」という趣旨の質問を受けたこともある。
 詩人が、詩論・短歌論や俳句論その他を打ち出すことがある。だが、たいがいの場合必要に迫られて書くのであって、とくに詩を発表する場においては、あらためて自分のスタンスを問われる状況ができない限りは、別段書かなくともよい。詩論はふつう「自分はこういうスタンスでやりますよ」と説明することに重点をおいた対外的・政治的な性格を帯びてもいるからだ。詩を発表することが主体の場においては、何か目立つ振る舞いでもしない限りは、このようなことを書くはめにはならない。
 私が批評を書く理由を表明しなければならなかったのは、少なくともその時点でここが批評をも発表するべき場としてひろく積極的に認められていなかったからだ。たとえば先述の、私につきつけられた本木氏の質問の根源は、私個人に対する不信感というよりはむしろ批評一般に対する不信感にあったのではないか。そして「批評の意義とは何か」という問いは、本木氏でなくとも、当時のこのフォーラムの参加者の誰の口からも発せられうる種類のもののように私には思われた。言ってみれば、批評はひろく信頼されていなかったようだった。

 批評の正義を回復するための活動もある。諸人さまざまな手立てでなされてきたがここではそれらのいちいちについては割愛して、批評ギルドの活動にだけ焦点をしぼろうと思う。
 批評ギルドはその活動の初めから指名制を採用した。批評者の集まりを組んで、そのなかの誰の批評を受けたいか、詩の書き手から選んでもらうというかたちをとった。
 このやり方の特徴は「契約」にある。商売上の契約一般が信用を前提とするのと同様に、この場合の契約的批評関係が成り立つには詩人と批評者相互の信頼がなければならない。
 はじめは期待で、それが進むと信頼になる。詩人は最初、「あの批評者(たち)は適切な言葉をくれるかも知れない」と期待し、批評を依頼するわけだ。そしていつも適切であったり特異でもおもしろかったりすると、回数を重ねるうちに「あの批評者(たち)ならきっといつだっていい批評をくれる」という信頼感を持つようになる。
 批評ギルドがあえて自由批評(指名や依頼によらずに批評者のとりあげたい作品をとりたげたいときに批評していく)というような方法を積極的にとらずに指名制こそに重点を置いたのは、創立者がこうした信頼関係(社会的位置)の構築を段階的に計ったためではないか。

 私は自由批評を理想としているので、ギルドに参加しなかった。だが批評の株が暴落している今、こうした方法は株価回復のためには有効策であって、むしろこのようなステップを踏まなければ今後も自由批評すら成り立たないようにも思われる。私の理想とは離れているがこうした活動は貴重だし、失われるのは惜しい。中心者の熊髭b氏がネットを離れているあいだ、スレッドを回す事務的な役割だけやらせてもらおうかとも考えたが、あいにく私は(人格的に不適格であることを除いたとしても)このところ忙しく、まともな批評が書けていないので、およそ事務などもできない。氏の早い復帰か、もしくは志ある代行者の登場を願うばかりだ。

見ろよ、路上で死体ごっこしてらあ――Ishii君に

 Ishii君に

 きみが私を君づけで呼んでくれたので私もまた親しみと敬意を込めて君をIshii君と呼ぶことにしよう。そして、君が反論を独白として提出したことに倣って、私もまたこの文章を独白としてここに差し出すことにする。とはいえ公衆の面前で独白を発するということは私にとっては極めて演技的な行為だから、真の独白ではなくあくまでパフォーマンスとして捉えてもらいたいという一言を付しておきたい。
 君の怒りはもっともだ。君のかつて使用したハンドルのふたつを私はばらしたわけだから。それに今更こんなことを言っても仕方ないが正直な話、私は例の文章を書いたあとで自己嫌悪に陥った。なぜなら、いったん退会してふたたび戻ってくる保証のない者を批判することは、たとえば語る口のない死者に向かって悪口雑言を浴びせかける仕草にも似ているからだ。
 だが私はいくつかの理由からあのとき書かざるを得なかった。ひとつは、君における欠如を指摘することによって私自身や読者の態度を引き締めること――自らのなしていることの自覚を欠き政治的責任を回避し続けているあるひとりの人間への遠回しな批判を開始しなければならなかった。もうひとつは、こんなことを書けば君は気味悪がるかも知れないが――君への一種の愛着のようなものが私にはある。馬鹿馬鹿しいくらい純粋に君は前衛のあとを追おうとしていた。私はそんな馬鹿が好きだ。愛着を持った人間に対しては、たとえ厳しい言葉であっても、私は投げかけたい。厳しい言葉というものは、それが的を得ていれば、ときとして致命的なものになる。肯定であれ批判であれ批評は致命的なものでなければならない。少なくともそう努力することこそが、対象への愛の深さを示す。そのような執着のない批評は「萌え」のないオタク精神に似ている。つまりそれは徹底性を欠いている。徹底しない以上真面目ではない。私は遊びで言葉を振りかざしたくないので真面目にやりたい。今私を書かしめているものもまた君への執着だ。……話が随分逸れた。
 結論から言う。楽天的な前衛などありえないと私は思うよ、それが「前衛」であり続ける以上は。確かに前衛は死んだかも知れない。だがその死体はまだ土に還っていない。ポイ捨てされたウールの靴下みたいにあと200年は分解されずに君たちの路上にくたばったままだろう。前衛の死体が分解されて土に還るとき、それはその手法がもはや前衛の手法とは呼ばれないほど氾濫しきったときだ。そもそも口語自由詩はかつて前衛的なものとして現れたはずだった。ところがどうだ、今じゃ誰も無韻自由律に疑問を示したりしない、多くの書き手が無意識のうちにこの形式なき形式を選択する。これくらいに意義が消え去ってこそ、かつて前衛だったものは馬鹿みたいに楽天的にふるまえる、ほんとうに馬鹿丸出しで。きみの手法はといえば今はまだだめだ。未だにひとびとのなかにあって「前衛的」という形容詞は有効だ。そしてその腐った形容詞に君もうんざりしているんじゃないのか。そこでうんざりしている君は少なくとも楽天的ではないさ。死体ごっこのなかで、反-前衛の圧力を観念の世界で感じるふりをしながら、緊張と摩擦ばかりを自らの内部に蓄えていくんだ。そんな生き方が楽天的であってたまるかい。得体の知れないものとの闘いなんだよ。
 私は君のキリキリしたところが好きなんだ。会議室で気に入らないやつが気に入らないことを言ったりすると歯に衣着せずに食ってかかるその態度が好ましいとさえ思う。世界のあいだで垂直に立とうとしているその潔癖的な態度がいいんだ。そんな君が自分のやっていることは楽天的な前衛だなんて言わないでくれ。最後にもう一度言う。楽天的な前衛なんてない。死体が笑うくらいにありえないことだ。たとえ死化粧でそのように装うことはできても、死体の内部はいつもどうしようもなくこの世界を喪っているんだ。

 第四無名者

問う――岡部淳太郎の(未)終着

 問うことは生きることだ――しかしこの命題そのものは断言であって問いではない。ゆえに、ひとがこの命題を生きるためには【問うことは生きることか】と問い続けなければならない。これは答えのない問いであって、そもそも問う者にとって現実からの返答は期待されていない。この問いに対して「そうだ、その通りだ」と安易に答える者があれば、「なぜそのように答えることができるのか」と問い返されるだろう。問い続ける者にとっては、答えを得るという目的よりも、問う姿勢を持続することこそが重要であり、生きることなのだ。
 岡部淳太郎『終着の浜辺』では、詩を構成する三連すべてが、繰り出された数々の断言のあとで「――は まだ遠いか」という問いによって締めくくられる。これらの問いには答えがない。これらの問いかけのあとに作者自身が「いや〜〜だ」と書き加える場合のような、モノローグ的な回答はいっさい用意されていない。それはこの問いが、内省の所産のものではないからである。内省的な問いにはいつも答えが用意されている。内省的な問いにおいては、もしも答えが見つからなくとも、それは答えがないのではなくバイアスがかかっているか能力的な問題のせいで探し当てられないだけである。内省によって得られる答えは自己対話にすぎず、自己完結でしかない。内省は他者を必要としない以上、問いも答えもいずれも生々しさを遠ざけてしまい、生の現実から剥離していく。それはいわばひとりよがりな思いこみでしかない。対して、この詩の各聯では思いこみとしての断言の続いたあと、問いがひらきかけるまでのその間隙――「まだ遠いか」という言葉が言葉になる瞬間――語り手ははじめて【問うことは生きることか】というテーマを生き始める。この「断言」から「問い」への転回は、自己対話から他者との対話への転回であり、話し手の生がひらめく瞬間である。

態度について

 すでに現代詩フォーラムを退会してしまったが、自動生成スクリプトによって自然数をひたすら羅列した作品を連続して投稿していた「/81」氏(何度かHNが変わっているが彼が初めに用いた名で呼ぶことにする)は、以前ここで方法詩を実践していたMasanobu Ishiiだった。そのことについてすでに気づいていた方もあるかと思う。私からの批評を待つと退会直前に私信で伝えてきた彼自身がそう明かしていたからこれははっきりしている。当時、状況が状況だったことと、私は別の問題に取り組んでいたのとで彼の作品への批評にすぐさま取りかかることが出来なかったのだが、私が返事をしないうちに彼は退会した。いま私がこれを書くのは、どういうわけかしばらく彼のことが思い返されてならないからだ。
 彼が退会を決めた最大のきっかけは、片野氏による容量についての発言だった。彼の自然数の羅列の作品はそもそもが大きな容量を要するのに、それに加えて日々連続投稿されて、データ量は膨大な数字へ膨れあがっていた。彼が投稿を開始して一週間でフォーラムのデータ全体の2%を彼の作品が占めたというのであるから、相当の勢いであったことは確かだ。断っておくが私は彼の作品行為や片野氏の発言のいずれの是非もこの際云々しようとは思わない。ただ、思い出すことがある。
 彼はオンラインで活動を開始した初期にも同様の問題を起こしていた。相手は管理者ではなく利用者だったが。確か、彼の『痙攣する密林で』が、どこだったかよそに投稿された際、ダイヤルアップで接続していた読者から「こんなに重いデータなのに内容はたったこれだけ。通信代を払え」などという主旨のレスがつけられたことがあったように思う(私はその読者の名前も投稿場所も記憶しているのだが、あいにく現在閲覧できる状態にないようなので伏せておくことにする)。
 コンセプチュアルな方向へ傾きすぎた作品の多くは、芸術史上の意義を論じるために評論家によって度々取り上げられるが、一般の鑑賞者たちのほとんどにとってははっきり言えばどうでもよい。彼らのうちの誰がデュシャンの『泉』を自宅に展示することを熱望するだろうか。同じように、いくらMasanobu Ishiiが(方法詩的な作法やミニマル手法や自然数羅列によって)作品外の状況との対比で語られなければ価値を見いだし難い作品群を提出してみせたところで、それは、一部の、けれど多数の者にとっては、どうでもいいものだった。
 彼はその活動初期においても、今回においても、他人の表明するこのような「どうでもよさ」に対して耐性を身につけていなかった。それは彼が自分のなしていることについて客観性を欠いていることの証左でもある。そもそも音楽愛好者たちがライヒのミニマルミュージックを好んで聞くひとばかりだとは限らないし、むしろ現実的には、嫌悪感を表明するヒューマニストに出会うことが(少なくとも私には)多い。ライヒの"Clapping Music"のような、拍手のズレだけを四分間以上聞かされつづける作品に本質的な馬鹿馬鹿しさを感じたり時間の無駄だという感想を持つ鑑賞者は、音楽大学の学生のうちにさえ少なくない。もしもそういうことがわかっていれば、あらかじめこうした、作品の意義よりもデータ量について比重を置いた反応が起こる可能性も考慮できたはずだし、その考慮がなされていて少なくともそうした方面での摩擦を避けようと思うならば、治外法権の効く自らのサイトなりなんなりで発表するという方策をとっていたはずだ。


 拙稿『反-方法芸術のために』で私が彼の方法詩について論じた際、彼は、政治的な問題は抜きにして、自身を方法詩にあこがれを持ったフォロワーであるとし、また芸術史を見渡す限りオリジナルを追随するフォロワーがいなければ発展はないという観点から、自らの作品行為を正当化しようとした(彼の提出した反論は彼の一度目の退会により失われている)。
 しかし、前衛の方法を踏襲するうえで、政治的な問題を抜きにするのは間違いだ。たとえば彼のあこがれたミニマルミュージックはかつて、一方ではセリー主義、もう一方では偶然性の音楽といった、現代音楽の分野において当時吹き荒れていた嵐をつんざくようにして現れたものだった。そうした流行のなかへ改めて自らの編み出した作曲技法を持ち込むことはつまるところ流行との作曲技法上の対決であり、現代音楽のシーンのなかで自らの位置を獲得できるかどうかの闘いであるという意味で、充分に政治的な問題を孕んでいた。本来、彼が古典的前衛のフォロワーを自称するというならば、前衛勃興当時からの時間的経過・変遷を含めてその政治的な闘いをどんなかたちであれ継承するということになるのだ。ミニマリズムに限らず、方法主義的作法を実践しだした動機について、純粋にあこがれたからだと彼は表明していたが、そのあこがれがすでに述べたような継承を覚悟したうえでのものでなかったとすれば、彼は大変に浅はかだったと言わざるを得ない。批判を浴びた際に「政治的な問題を抜きにして」フォロワーとしての自らについて弁明することは、複数の正義が交錯する闘争の場において一度は誰か一方に与しておきながら、あとで関与について問われた際に知らぬ存ぜぬを通すこととまったく変わらないのである。


 このように彼は自身の態度が公的な場所でどう受け取られるかということについての客観性とつきつけられるだろう反応への耐性とを欠いていた。けれどこの欠如は別に彼のみに限ったことではないように思われるのは、私の思い過ごしだろうか。

息切れ――坂田犬一の助走

坂田犬一『I氏の走り書き』

 ここに書かれた感覚はほとんど平凡であるし、ウェブを検索すればいくらでも似たような文章が見つかるように思う。最終行だけが少しく背理を孕んでいる。それというのもふつう「コーヒーを飲めば」「眠く」ならないのは常識であるのだが、それでも「眠くなるだろうか」と問いかけるこの言葉には、その常識に従わない、錯乱した発想があらわれている。「コーヒーを飲めば」「眠くなる」のは、もはや常識的な身体ではない。つまり言ってみれば、この問いかけの前には、非常識な、反コード的な、背理的なねじれた身体が自らのものとして想定されているのである。ふつう、詩はこの倒錯した最終行からあらためてはじまるはずだ。この倒錯は本文の文脈からしてまったく脈絡のないもので、ほとんど思いつきであらわれたと言ってもいいのだが、ほとんどの詩がちょっとした何らかのインスピレーションから書かれるように、こうした思いつきを得た時点でそれを起点に詩を書き始めるべきなのだ。その跳躍を欠いたこの作品はいわば助走のための助走である。

灰をすくう――こもんの手について

こもん『mar』



 この詩の言葉がまぼろしのように読者のイメージの空を旋回するのは、書法のうえで、かつて一度言い放ったことをふたたび反転させたりするなかで、微妙に差異を孕まされていっているからだ。
 
  おしるしとして、数匹の耳、数匹の目、数匹の
  口
  それら、わたしの内に外として、群れの
  おしるしの数匹             (第一連)


 一行目から二行目を読むと、「おしるしとして」あるものは「数匹の耳」「数匹の目」「数匹の口」であると考えられる。ここでは、「耳」「目」「口」一般が「数匹の」という修飾語をつけられることによって「数匹の耳/目/口」へと特殊化され、その特殊化されたものが「おしるし」とされている。くどい言い方になるが、はじめ「おしるし」はこのように或る程度特殊化された器官とイコール関係になっている。
 ところが四行目で「おしるし」はズレを孕みはじめる。
・「おしるし」を持っている「数匹」のことが「群れの/おしるしの数匹」と言い換えられている。
・「群れ」(=個体の集合)のなかで「数匹」は特別な存在になっていて、その特殊性をしめすものとして「おしるしの」という言葉が機能する。
 このように一・二行目ではいくつかの器官とイコール関係であった「おしるし」は、四行目では「群れ」のなかから「数匹」を区別するための概念へ変わっている。

  声は、書き込まれて、遠さは近くなって、近さは遠くなる、遠吠える内側から
  まなざし、見る燃えて、
  白けて
  白けたおしるし             (第二連)

「遠さは近く」なり「近さは遠く」なる、この遠近概念の交代は螺旋状に行われている。また「声は、書き込まれて」というふうに、音声は消えて文字が優先権を持つ瞬間を現しているのに、次には「遠吠える」とふたたび音声がよみがえっている。また、「遠吠え」る「声」の指向するベクトルはふつう「遠さ」へ向かうはずなのだが、すでに「遠さは近く」なっているので、この「遠吠え」はどこまでも「遠く」なる「近さ」のあたりで、くぐもっている。
 この言葉の螺旋のなかで、「まなざし」は「燃えて」、「おしるし」は「白け」る。反復された差異はそれ自体のありさまによってやがて或る貫通した純粋性を提出するのだ。螺旋の回転運動のなかで意味を振り払われて「白け」てしまった「おしるし」はほとんど他の何も意味しない、「おしるし」以外の何ものでもない。いわば繰り返し「燃え」る意味の炎をくぐり抜けて純粋に焼け残った灰である。このようにして書き手は世界から美しい灰をすくいだした。

テーマソング――水曜会のうたった歌

 絶望は、声帯と、文字を書く手とを持たない。もしも誰かに自らの絶望を語ったとしても、それが言葉である以上、相手は言葉としてあらわれた音声だけをしか知ることはない。それは決して自らの内実とは一致しない。網膜を焼く太陽を見つめた幼児の多くは、お絵かきの時間に赤かオレンジのクレヨンを探すだろう。だがそうして描かれた赤い●の絵、オレンジの●の絵のとおりに彼らは太陽を見ていたのだろうか。決して! 表現の矢は確かに内面の弓から放たれる、だが表現とは、内面の(表/現)れではない。そのことを知っている者は、自らの絶望について語ろうとは思わない。語られた言葉は、この(他のなにものでもない)絶望を伝えないからだ。
 ひるがえって、ほんとうに美しい思い出、ほんとうに「すばらしい日々」についても同じことだ。
 水曜会『きみときみときみへ』のなかで、「僕」がそれらについて詳しく語ることは決してない。「僕」は赤いクレヨンで太陽を描き、緑と青ので大地と青空を描くように、さまざまな「すばらし」いものを次から次へ取り出してみせる。だが、それらについて微に入り細を穿つまでは「語らない」。絶望にしろ美しい思い出にしろどちらにせよ大切にするものだ。抱えてどこまでも持っていくものだ。今捨てようとしなくてもいらなくなる日はいずれくる。

  もう続かないみちたりたあの日のしゅんかんをかんがえ
  すべてがこなごなにくだけちってかんぜんになくなってしまって
  そらが落ちてきたあの日からあとを生きよう     (第七連抜粋)

 第七連でリフレインする「〜しよう」という語調は、誰かに行動を促すための呼びかけではないように響く。かといって、自分自身を奮い立たせるために懸命に言い聞かせているのでもないようだ。私にはここは、はなうたのように聞こえる。口からふっと出て、なんとはなしに流れて、けれども自らの生きる傍らを伴走するような、ちょっとした、すがすがしいテーマ曲だ。
「あの日」はくずれさってしまう、「もう続かない」ものだ。けれど、「あの日からあとを生き」ようとすることは、自らにとって「あの日」をなかったことにせずに生きるということであって、「すばらし」かった「あの日」のことをずっとずっと遠くの遠くへ運んでいくことだ。
 繰り返される「きみはそれを見ない 僕は語らない」というフレーズは、それぞれの立ち位置を確認するかのように何度かあらわれる。「僕」が「あの日」をそのままのものにしておくために「語らない」のとは対照的に、「きみ」は「すばらし」かったものを「見ない」。なぜ。太陽はまぶしいから。それは網膜を焼くから、盲目のまま歩かなければならなくなるから。じっさい「僕」は盲目的なほど、「すばらし」かったものをうたがわない。あるいは「ぜつぼう」を。
 だがルイジ・ノーノによって教会の壁から見出されたあの走り書き「歩くひとよ、その先に道はない、夢見ながら歩かねばならない」(Caminates, no hay caminos, hay que caminar.)を引き合いに出すまでもなく、そして高村光太郎の『道程』を引用するまでもなく、わたしたちの前には、いつも道はない、道は見えない、閉ざされたまぶたで、どこまでもどこまでも、歩いていかなければならないのだ。「僕」と違って「きみ」はそれを知らないだろう。自らの眼はとらわれることなく開かれていると思っているだろう。だがほんとうの夢や希望はまぶたを閉じたときにしか見出すことはできないのだ。
 ほんらい自らの内面でのみ完結するものについて、絶望や美しい思い出について、はなうたを少なく口ずさむひとは希望を持っている。その歌は、希望の響きを帯びている。