変態(クィア)入門 (ちくま文庫)

変態(クィア)入門 (ちくま文庫)

<補足作品情報>
内容(「BOOK」データベースより)
ゲイやレズビアンは知っている。性同一性障害…もわかるような気がする。じゃあ、インターセックス(半陰陽)は?女装家とゲイの違いは?男から女に性転換したレズビアン、なんているの!?―ゲイライター伏見憲明が、性の境界線を揺らす、さまざまな変態(クィア)たちと対談。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
伏見 憲明
1963年、東京生まれ。慶応大学法学部卒業。1991年、『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房)を書いてカムアウト。その後、旺盛な著作活動を続ける一方で、大学で非常勤講師を務めたり、講演活動で全国を回るなど、ゲイ、そしてクィア・ムーブメントの先駆者的役割を果たす。雑誌『クィア・ジャパン』(勁草書房)責任編集(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

目次
文庫版はじめに
1、志木令子  ネイティブ・レズビアン
2、嶋田啓子  トランスジェンダー? オーバージェンダー
3、虎井まさ衛 FTMTS ♀→♂+バイセクシュアル
4、麻姑仙女  MTFTS ♂→♀+レズビアン
5、三橋順子  女装家 パートタイムTG
6、ハッシー  インターセックス半陰陽
7、花田実   障害者のゲイ
8、川本恵理子 レズビアンマザー
9、柿沼瑛子  おこげ? やおい? ゲイ文学翻訳家
10、松沢呉一  ヘテロセクシュアル・ペニス研究家
文庫版あとがき
解説 言葉がなくても、私は存在する 中村うさぎ

*本書は、1996年1月、翔泳社から『クィア・パラダイス―性の迷宮へようこそ』として刊行されたものを改題・再構成したものです。

 読了。「普通」の人なら突然こういうの読んでると言われると驚きそうな気がするけれど、その驚くという構造自体がいかに人々の心の深層にこびりついているかをまざまざと感じさせてくれる内容。第一目次のラインナップを見るだけでも、「普通」に生きていたら思いもよらないような性のあり方をぐっと実感させられる。
 変態(クィア)という言葉は確か、伏見さん自身がセクシュアル・マイノリティ一般に関して戦略的に日本に導入した言葉であったと思う。元の英語Queerは「オカマ野郎!」みたいな罵倒語だったのですが、アメリカのゲイたちがそれを逆手に取って肯定的な言葉として使い始めたことが「Queer運動」の始まりと言われています(参考:USツアー2004: 【米国便り19】Queer クイア ってなぁに?)。多様な性を表す言葉、そしてそれぞれの性を生きる人々がいかに差別と戦い、また「常識」として捉えられているのとは違っていかに肯定的に生きているかを表す言葉として用いられているわけです。この「変態(クィア)入門」は、まさにそうした肯定性、生きているという現実を生々しく伝える対談本となっています。
 ジェンダーのみならずセックスに関しても「男」「女」の二元制にはなっておらず、多くのグラデーションが存在している。無批判に信じられている性別二元制は蓋然性のものではなく、ちょっときつめの言い方をすればご都合主義的な、もっと言ってしまえば人々を縛り付ける監獄のようなものです。パノプティコンではないけれど、自分自身の眼差しだけでなく衆人環視されているような状態で規定されている。「性の解放」が叫ばれ多様化した性を受け入れる人が増えてきているとはいえ、この監獄には無関心な人が依然圧倒的多数です。
 面白いと思ったのは、TS(トランス・セクシュアル。性転換者)の人たちが自己のアイデンティティーとして、ヘテロの人々よりも「男」「女」という二分法に固執しているという点。ハイパー・ヘテロ、超ヘテロなわけです。この二分法を利用していかなければ戦略的に自分をアピールしていくことができない。それはゲイやレズビアンにしても同様な場合があって、伏見さんの言葉を使うなら、男<制>や女<制>にいかにコミットするかという「ゲーム」に参加することによって自己の欲動の対象化を実現するわけです。ただそのことに対して意識的であるかどうかが重要。それにはもちろん「結婚」や「出産」といったクリティカルに見える問題も絡んでくるだろうし、だからこそパートナーシップというものに関して非常に敏感になるわけです。
 もう一つ、伏見さんがこの本の中で面白いことを言っている。以下少し引用。

 僕、思ったんだけど、近代的なセクシュアリティ―「性」のカテゴライズというのは、一般的には、性的指向において区別されていたわけです。異性愛者とか同性愛者とか。そのことがすごく決定的な違いのように論じられてきたんだけれども、じつは本当の違いは、僕と三橋さんみたいな関係のほうがあって、正確に言うと、主体の性的アイデンティティの構造から、性自認者、性役割者、性的指向者という分け方をしたほうが実態に即しているのではないか、と(笑)。性自認者はTSの人たちですね。性役割者はある意味でTV(Boulez注:トランス・ヴェスタイト。パートタイムで自己のジェンダーを入れ替える人)の人たち。性的指向者というのは僕とか異性愛の人たち。つまり、何がその人のアイデンティティにとって、「性」の中核をなしているのか、ということがポイント。(pp.184)

 背景を少し言うなら、TSの人たちにとってまず重要なのは自分が「男でない」あるいは「女でない」という性自認の問題。どんな相手を好きになるかは二次的な問題でしか無いわけです。まず自分の身体への異和から始まる。そのあたりもこの本には書かれています。そしてTVのような人たちは、100%「男」であるとか「女」であるとかいうことに無理があって、役割的に自分の虚像の部分としての「別の性」を生きようとする。虚像を生きることによって自分の主軸の部分での快楽が増す、というような言い方もされています。性的指向という点では、まずどんな対象に欲情するかというところがアイデンティティーにとってクリティカルであり、そういう意味では同性愛と異性愛は同構造として論じられるということになるわけです。運動や考え方の点からすると、同性愛はTSやTVらと手を組むよりも異性愛と手を組んだほうが理解し合えたりする、というのは何とも逆説的な感じがして面白いです。もちろん、こうした部分に関しても多様性はあるもので一概には言えないのでしょうが。

 「監獄」に無知でいられることは、それはそれで幸せなことかもしれません。ただ、それによって苦しめられている、その中でも何とか肯定的に「性」を生きようとしている人々がいることは忘れてはいけないと思います。最初は興味本位でもいい、まずは関心を持つことが大切なのではないでしょうか。
 編著者の伏見憲明氏のブログ伏見憲明の公式サイト | ポット出版も一応ご参照。