知的障害者をめぐるお題ふたつ (追記アリ

もやもやとしてまとまらなく、そしてこういう話題は自分の人格のありようを問われるので、無意識に差別意識が露呈するんじゃないかと怖くもあるのだが、しかしあまり寝付けずに夜が明けてしまったくらいもやもやしているので、思い切って言葉にしてみる。「書きとめること。考えている途中をメモするということ。 - もっこもこっ」に励まされた感あり。

お題はふたつ。愛媛県の高校入試について家族会から要望があったという話、そうして知的障害者の性欲という話。まとまらないので、提言も批判もなにもなく、ただ垂れ流すだけになるのでお目汚しをあらかじめお詫び申し上げる。

愛媛県の高校入試について家族会が知的障害者への配慮を申し入れる

報道があるのを知って、実は最近まで等閑に付していた。

公平性・客観性を担保するために他の報道機関のものも参照したかったのだが、Google News では、上のリンクも含め、記事を見つけることができなかった。他にご存知の方は、教えていただけると嬉しいです。

「愛媛・知的障害児の家族と理解者の連絡会」という団体が、愛媛県教育委員会に高校入試についての要望書を提出した。これが今月の15日。現状はこんなところ、らしい。

要望したのは「愛媛・知的障害児の家族と理解者の連絡会」 (白石勇代表) 。県教委によると、知的障害者も県立の普通高校を受験できるが、現在は入試の筆記試験の得点への配慮はしていない。ただし、知的障害者の受験者は「特別措置願」 を提出し、別室での受験や中学校の教師が介助者として入試に同席することなどは出来る。

http://mytown.asahi.com/ehime/news.php?k_id=39000000901160002

この記事の構成をみると、さらに入試での特別の配慮を求める家族会の要望を紹介した上で、「これまで、知的障害者にだけ筆記試験の内容を変えるのは公平性の確保につながらないと判断して認めてこなかった。今後は高校長と協議して判断したい」との県教委のコメントでしめており、やや行政よりの報道かなとも感じる。もうひとつ気になるのは、ノーマライゼーションなり教育なりの専門家のコメントがないということで、大状況のなかでこの要望を捉えるという姿勢が報道から感じられない。プレスリリースを引き写すだけならだれにでも出来るので、報道機関にはもう少し工夫してもらいたい気がする。閑話休題

実際の要望書は次のようなもので、2バイト文字と1バイトの文字の混在とか個人的にはうえっと来ちゃうのだが、しかし引用なのでそのまま載せる。ただし行頭開けと字間の調整は行い、空行は削除した。

要望書

愛媛県教育委員会       平成21(2009)年1月15日

教育長殿

愛媛・知的障害児の家族と理解者の連絡会

平成21年度愛媛県立高校入学試験には6名の知的障害児が普通高校を受験します。そこで以下のことを要望します。

(1)知的な障害を持つ子どもたちであっても、県立普通高校で学びたい希望を持つ者については、受け入れて教育をするつもりで県立普通高校の門戸を開けてください。

(2)知的障害児に対する特別措置については、障害による不利益を補う形で検討、実施してください。

http://home.e-catv.ne.jp/palet6/s3-3.htm

三者であるわたしが行政よりかな(家族会に対してやや否定的かな)と感じたのはあながち外していないのではないかと思う。家族会のウェブサイトをみると、取材を受けた側には記者の応対に対してかなり不満が残ったらしい。*1そういう少し感情的に波立っている文章を、失礼ながら書くことに関してはアマチュアである方がものされると推測されて、後に続く文章はわたしには舌足らずにみえた。主張のポイントを繰り返している筈なのに、真意がまったく見えてこず、残念である。こうある。

その後マスコミ各社の取材を受けました。中でも一番ひどかったのが、ある新聞社の質問でした。

「特別措置の中身は、県立高校の合格点を下げて入学させてくれということなのですか。」と。

こういう質問には参加者が戸惑い、うまく応えられませんでした。逆差別とか合理的配慮とかというものは、このようにとらえられるのかと思うと、少しだけ疲れるものがありました。そこでやはりこのような質問をしてくる方には、
 『いやそうではなく、0点でも高校へ入れてください。』と言うべきだと思いました。

括弧の使い方がぐしゃぐしゃで(一重括弧と二重括弧の使い方は小学校の国語の指導範囲だと記憶している)、それをみただけで疲れるのだが、まあそれは本題でないので置く。コミュニケーションがうまくいっていなかったということ以上の情報をわたしはここから読み取れなかった。あとでウィキペディア日本語版の「ポジティブ・アクション」という項目をみていると、positive discrimination の意味で逆差別を使っているような箇所があったので、あるいはこれはご当人の意図としてはアファーマティヴ・アクションの要求のつもりであったのかもしれない。

その是非はしばらくおく。私個人は高校全入よりは、むしろヨーロッパ流に複線化した上で資格試験などで職能レベルを分かりやすくするとともに、大学など高等教育へのリエントリをしやすくするほうがよい、また中学卒業と大学入学は、国レベルで統一資格試験にするほうがよいと思っている(現状でも「中学校卒業程度認定試験」が日本にはあるが、就学義務猶予免除者等の非卒業者のみが対象である)。そういう立場からするとあまり好意的にはなれないが、しかし親は子どもの権利を代理で主張するのだから、要求があるならお出しになったほうがよいのだとも思う。

だけれど、何を望んでいるかわからないというのは議論以前の問題だよなあ、とちと途方に暮れる。高校に入れることで何を望んでいるのか、そのことにどんな利益が子どもにとってあるのか、などを考える以前に、この要望が具体的に何を要求しているのか、わたしにはわからなかった。

公立下位高と定員割れ

愛媛県の高校は定員割れしているようではあるのだがH15県教委文書H15県教委統計、pp.4-11)、一方で入試には一定数の不合格者が出ているようであるH14年統計(cf. 参考。入試にはその教育機関での教育に耐える能力のある生徒・学生かどうかをみるという機能もあって、それをむやみに下げることに意味があるともわたしには思われない。というのはわたしの通った高校は、いわゆる公立下位高であって、そこで無理に高校へ入ったばあいに何が起こるのかというのはそれなりに見聞してきたからだ。

わたしがその高校にいったのは、第一志望校に落ちたが定員全体の当落ラインには達していたという理由で、そのあとの第二志望以下を出すときの選択の仕方などもあって、大幅な定員割れをしていたその学校にいったからである。というわけで高校のときは、上は偏差値70台から下は40台くらいまでが同じ教室にいて、それはそれなりにおもしろかった。授業はややつまらなかったが――受講生の学力に大幅な差があるとき、大規模授業の楽しいのというのは難しいと思う、まあ高校生活というのは勉強だけではない。比較的古い学校で、図書室には司書が二人いて、クラブ活動も生徒会の活動も満喫して、大学受験では無事志望校に受かったので、そうひどい日々ではなかった。ただ、だれにでもそうだったのかどうかは疑問がある。話を戻すと、わたしたちが入学したとき、すでに私達の学年は1クラス分定員割れしていたと思った。グループ合格といわれたわたしのような二次志望振り分け組をいれた後に、さらに定員割れしていて二次募集試験を行うのだが、その倍率が10倍以上*2、それでも定員割れしていたのだから、落ちた方の学力がどの程度のものか、わたしには想像が付かない。そうして、その年度が終わると、学年は一クラス減っていた――成績不良あるいは欠席などで単位が足りずに進級できなかったひとの多くがやめていって、そうして次の年度が終わると、また一クラスが減っていた。在学中に、NHKの番組で高校退学者の急増を扱ったものがあり、「都立高校で一番退学者の多い高校」として映ったのがうちの高校だった。ああいうとき人は笑うものなんですね。次の日、クラスではその話題で持ちきりになりました。

あの二クラス分、80人は、そのあとどうしたのだろう、と思う。数人はそのあと文化祭などに顔をみせ、バイクでやってきたので教師はお義理で顔をしかめたが、わたしたちはただ懐かしがって、いろいろな話をした。しかしそういう人は少数で、あとのひとは同窓会にいるわけでもないので、ほんとうに消息は不明である。彼らがあの1年、あるいは2年間を、回り道ではあってもなにか喜ばしい思い出として保っているのならいいけれど、あるいはそのなかで自分の人生のキャリアにとってなにか決定的なものとであったのならよいけれども、しかし15歳、16歳、といった将来の基盤となるものを培う時期に、たんに無為に時間を過ごしたのだとしたら、それは他の人はともかく、彼らにとって大きな損失なのではないだろうか。

まったくのおせっかいなのだけれど、というのは彼らだって自分の意思で高校へ進学してきたので、でもそういう状況がたいしていま変わったとも思われないところに、たんに入り口だけを広げてみることに、どういう意味があるのだろうか*3。この問題についてたんに自分が無知だからかもしれないがわからないでいる。

成年知的障害者とその介護の問題

とはいえ――これはかなり邪推気味だが――親御さんはひょっとして卒業後ご自分の子どもが職を得て社会の一員となるという絵図を描けずにいるのではないだろうか。愛媛県の統計(http://ehime-c.esnet.ed.jp/soumu/daisingaku/14daigaku.pdf)をみたら、養護学級学校・盲学校・聾学校(以下養護学校等)*4。卒業生の75%は卒業後、無職だとあった(平成14年、2002年)。身体障害者はさいきんだいぶ雇用が進んできたようだが、知的障害者についてはまだまだ厳しい。邪推だけれど、どうせ卒業後は家にいて、籠もっている他ないのだったら、あともう少し見知った友達と遊ぶ時間がほしいというのは発想としてはありえると思う。高校進学というのは、とくに大学区制であれば、中学の友達とは大分疎遠になってしまうもののようにおもうし、○○さんと一緒にいたいというのは進学動機としてかなり不純な気がするけれど、それは私が書に淫しているからだろう、試験に合格する水準にあれば、動機の内実を問わないのが日本の公立高校入試ではある*5

障害者の介護というのは、だれにでも手が出せる部分と、そうでない部分がある。身体介護などはある種の技能で熟練を要するし、また知識が必要な場合もある。また世間の漠然とした予断が通じない局面というのも多々あるように思う。そのひとつに性の問題がある。

マスコミなどが広めた「天使のような」イメージをもとに考えることには無理があります。力の弱いものにとって脅威になりうることを前提として考えなければなりません。発達障害を支援するキャンプに参加する女性ボランティアは,夜間の施錠など,身を守るよう厳重に注意をうけます。社会が受容すべきであると言うならば,このことの意味をふまえたうえで主張することが望ましいと思います。

(中略)

ぼくがこの記事を書いたのは,障害にともない性的逸脱行動や攻撃的行動が多く見られることは知られるべきであり,それ抜きでの支援や共生は成立しないと考えているからです。現状,マスメディアではこのような側面をタブーとして扱わない傾向にあります。

http://d.hatena.ne.jp/miminoha/20081207/1228635604

そういう配慮がメディアによって行われているのかどうか知らない。またブックマークコメントのなかには、そうした「性的逸脱行動や攻撃的行動が多く見られる」というのが警察の統計からはいえない、という指摘もある。その上で、成年あるいはおそらく青年であれば、知的障害者にも性欲がある、という当たり前の事実を、われわれの社会が多く忘れていることを、ここで改めて思い返しておくのはよいことだと思う。なおこれは老人の性欲をなにか隠蔽すべきものであるかのようにいうこととも通じると思う。

過度に誇張することはそれ自体が差別の温床になろうから、それは避けたいと思うのだが、知的障害者の支援活動で一緒の施設に泊まる際に、女性が夜間の施錠などについて特に注意されるというのは、わたしの経験からは事実である。知的な遅滞があることを除けば彼らは健康な成人男性であって、理性による(種の保存という観点からはある意味無駄な)抑制がない分、異性に好意を抱けば、あるいは性欲を刺激されれば、行動に及ぶ可能性はありえる、ということを云われた記憶がある。だから部屋に必ず鍵をかけてください、と。いわれてみれば当たり前の話で、そうしてここで強調しておきたいのは、そうした知的障害者が昼間いきなり襲ってくるということもわたしの経験のなかではやはりなかったし、また認識している限りでは誰かが夜中にドアをけやぶろうとしたということもなかったということだ。だからそれはその場に関しては杞憂だったのかもしれないが、しかしどちらが配慮すべきかといえば、それは障害のないこちら側だろうと思っている。お互いにあとで不愉快になるようなことが懸念されるなら、気づいているほうがうまく立ち回って未然に防ぐというのは、人間どうし当たり前の配慮じゃないだろうか。

普通に同じ空間のなかでそれぞれの作業をして、たまにたあいのない会話をして、ご飯を食べ、そうしただれにでもある生活の営みが、知的障害者にもまた可能で、ただそこには他者による一定の配慮と注意深い生活空間の設計が求められる。それを支援といい共生というのだろうと思っている。誰かを隔離して、なきもののごとくにして、そうして多数が幸せになる――それは、人間性の欠けた発想だとも感じる。一方で誰かを無尽蔵に受け入れる、与えるということとは、それは別のものだ。個人は出来る限りのことをすればよいのだと思う。そうしてもう一方で国には権利として保障されている最低限を与える義務があるとも考えている。

まとまっていないまとめ

そうして、話は愛媛県の高校入試に戻る。

障害者のノーマライゼーションを、むしろ多数派(健常者?)を多様性によって裨益するものと考えるという観点がある。

社会全体で見てみよう。AAは少数派を優遇する。なんのために? 少数派が現に差別され、不遇をかこつ状況にあるから……だけではないだろう。少数派出身者が高等教育を受け、多数派出身者と変わりなく能力を発揮できることを証明する――それは少数派だけでなく、少数派に自分と変わらない能力を見る多数派をも裨益する。一緒にいれば、自分と属性の違うものに自分との共通点を見いだすこともあるはず。なにしろ同じ人間なのだから。

(中略)

AA(引用者注:アファーマティヴ・アクション)は社会を利する。少なくとも、そういうふうに期待されるべきものだ。「少数派のことなどどうでもいい。多数派出身者が、様々な面で不利な状況にある少数派出身者より能力がほんのわずかでも高い(それも、選抜試験の段階で高いというだけの話だ)のであれば、あくまでも学力のみを考慮して選抜すべき」という主張をしたってよい。そういう意見が政治の俎上にのらぬということもなかろう。僕は支持しない。

さきごろ知的障碍者の父母で作る団体だったかが、知的障碍を持つ子どもも普通科高校に入れるようにしてほしいという要望を出した、とか聞いた。これは、彼らの学力レベルがどうこうという問題ではなく、「普通の子どもたち」にとって重要なことではないかと僕は思う。つまりノーマライゼーションの話なのではないのかと。

あなたとは違うんです - そこにいるか

id:islecape さんご自身は、ブックマークコメントによれば、この要望そのものについては懐疑的でおられるようだ。なので、ある種の思考実験と受け取ってもいいのだろう。わたしも、その側面については否定しない。他の生徒にとっては貴重な経験になるだろう。だが、高校に進学する知的障害者の生徒たち本人にとって、どうなのかが気になる。養護学校ではそれでも25%の卒業生がなんらかの職につく(それが高い確率で低賃金労働かもしれない可能性については残念ながら否定しない)。普通高校への進学は、あるいはその可能性を完全にたってしまわないのだろうか。彼らの自立支援に、それはどれだけ裨益するのか。そう思って、なんだかずっとこの二日間もやもやしていた。

「他の生徒の益になる」というのは、やはりよい理由ではないと思う。それは副次的効果にとどまるべきで、目的とされるべきではないと私は思う。わたしの倫理観はどこかでカントと強い親和性をもっているらしい――人格は目的とされるべきで手段とされるべきではないという指摘が、どこかでこだまする。多数派の、健常者の、利益になるという理由で、教育環境として不適な場所に知的障害者であれ他の少数者であれ、おかれることはあってはならないとおもう。

そうして、islecape さんの議論もやや理路がねじれているように感じる。「少数派出身者が高等教育を受け、多数派出身者と変わりなく能力を発揮できることを証明する」のは民族や性別などによるアファーマティヴ・アクションを念頭においているように思うが、それを知的障害者に適応するのはかなり無理があるのではないか。公共施設などをだれでもアクセス可能にするなどを通じ、障害者に生活の不都合を生じさせているさまざまな要因を社会の側から解消していくノーマライゼーションと、社会的差別によって劣位に置かれている少数者を優遇することで差別自体の解消を目指すアファーマティヴ・アクションは、広い射程では社会全体の裨益ということで一致するにしても、やはり目的と前提を異にしているように思えるのである。

結論はわたしにはない。まだ。

追記 18:28

こんなブックマークコメントをid:z0racさんからいただいた。

カントが「知的障害者の悟性」を認めてたかどうかは微妙かなぁ。

はてなブックマーク - z0racのブックマーク / 2009年1月22日

わたしも知らない。ただ最低限を認めざるをえないだろうとは予想する。上級認識能力である悟性を欠くというのは人間でないということとカントにとっておそらく同じことで、それは何か特別に難しいものでもない――純粋悟性概念(範疇)が知的障害者の認識能力に備わっていること、彼らによるその使用を我々は否定できるだろうか。量の多寡、質の比較、因果性(原因と結果)、関係、そうした基本的な概念の枠組みは彼らにもまた備わっている。カントならそういうんじゃないかと私は予想する。

いっぽうで、カントが考える「普通の悟性」(gemeiner Verstand) をカントが知的障害者に認めているかどうか、わたしは知らない。なにか言及があるとすればそれは人間学(Antholopologie)辺りかと思うが、いまのところ詳しく調べる動機が自分にはない。

もうひとつの論点として、カントは世界公民たる学者(公共空間で言論を行うにたる能力をもつ人々)と教養の開発されていない民衆を分ける思考の持ち主であったことはふまえる必要がある。たしか『諸学部の争い』だとおもうが、前者には言論の自由が最大限認められるべきだとしながら、いっぽうそれを後者、学者の世界の外にも広めることをカントはむしろ世俗的秩序の維持のために有害だとみなしていた。彼が自分の著作をも含めて出版物の発行禁止措置などの統制を政府が行うことをなにか権利の侵害であるとはみなしていなかったことを留意したい。このあたりの啓蒙主義的で父権主義的な議論はただちに現代社会に適応できないのではないかとわたし個人は思っている。ご参考になれば。

追記:はてなブックマークトラックバックでの反応へのお返事をまとめました。「知的障害者をめぐるお題ふたつ」へのコメントとお返事 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

一日一チベットリンク:AFP、「中国国防白書を発表、台湾・チベット・ウイグルの脅威を強調」、1月20日

*1:おそらく取材した記者に取材前から中立ではないなにかがにじんでいたのではないだろうか。ストーリーをあらかじめ作った上でアリバイつくり的にコメントなり写真を撮りに来るというのは日本の大マスコミでは珍しくないのは震災のときに知った。

*2:ここは記憶が間違っている可能性があることに気がついた。打ち消し線を引いておく。

*3:追記。書いてみて気がついたんだが、これポスドク問題と構造が似ている気がする。

*4:追記。現在はこれらすべてを併せて特殊支援学校という。最近の法改正を反映してだが、このエントリで参照した統計はその法改正以前のものであるため、旧名称が使われている。

*5:追記:オランダはそういえばどうしてるんだろう。オランダでは公立学校は教育方針の相違などをもとに児童生徒を退学させることが禁止されているときいている。受け入れにもたしか制限はなかったはずだ。