シンショウノヘダテ




 参 商 之 隔






互いに遠く離れて会う機会がないこと。夫婦や親友が仲違いしたり離別したりすること。読み方は「シンショウノカク」でもよい。
「人生相見えざること、参商の如し」「参商一隔」「燕雁代飛」とも言う。



古代中国では、空の星を二十八の星宿に分け、その星の一つひとつに名前をつけていた。たとえば「参」は「参星」の略で、オリオン座の三つ星のこと。「商」は「商星」の略で、蠍座のアンタレスを中心とする三つ星のことを指す。東の空にオリオン座が昇るとき、蠍座は西の空に沈んでしまい、両星は空において相まみえることがない。



ギリシア神話でも両星の相性は悪いが、中国でも同様であった。『春秋左氏伝』昭公元年によれば、高辛氏の二人の男の子、兄の閼伯と弟の実沈は仲が悪く、喧嘩が絶えず、とうとう殺し合いを始めそうになったので、商と参という二つの遠くの国に住まわせ、それぞれ商星と参星を司らせ、兄弟は二度と再会することがなかったとの故事がある。



   人生不相見  (人生 相見えず)
   動如參與商  (動もすれば 參と商の如し)
   今夕復何夕  (今夕は復た何の夕べぞ)
   共此燈燭光  (此の燈燭の光を共にす)



上記は、杜甫の「贈衛八処士」という漢詩の中の一節である。衛八処士という友人と久方ぶりに再会したときの喜びを詠じている。短い人生においては、参星と商星のごとく、一度別れた人ともう一度会うということは難しいものだ。にもかかわらず、あなたとこの灯りの下で会えて本当に嬉しい。要は「一期一会」ということなのだろうが、故事を踏まえ、星に喩えたところに杜甫の非凡さが光る。



こんな用例も見つかった。
《これらは花の咲くときは葉がなく、葉は花がすんだあとで出て春に枯れる。その後秋になるとまた忽然と花が出る。ゆえにヒガンバナに「葉見ず花見ず」の名がある。これはヒガンバナに限らず、キツネノカミソリでもナツズイセンなどでもこの属の植物はみな同じである。今これを星に喩えれば参商の二星が天空で相会わぬと同趣だ。》
日本の植物学の父と言われる牧野富太郎の「植物一日一題」という文章からの引用であるが、「葉見ず花見ず」を「参商」に見立てたのも亦、洒落ている。



森鷗外の日記(明治十七年十二月二十八日)より。
《朝家書又至る。応渠翁の書に曰く。参商一隔、いかにおはすらんと》
「応渠翁」というのは、漢方医で詩歌もよくした佐藤応渠のことである。「参商一隔」という言葉で、鷗外は即座に杜甫の詩を思い浮かべ、自身の無沙汰を心に詫びたことだろう。こういった何げない文章にも、現代人と当時の人との教養の「参商之隔」を痛感せられ、歎息せざるを得ない。



ちなみに「燕雁代飛」という四字熟語は、燕と雁という季節を異にする渡り鳥が代わる代わる飛ぶことを言い、『淮南子』の地形訓を踏まえている。