Comments by Dr Marks

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No. 23.

コメントにならないコメント−38(ヴァメーシュの『イエスの復活』「パウロにおけるイエスの復活」前編)


古代コリントのアポロ神殿


福音書のみならず新約聖書中のイエスの復活に関する記事の多様さは、ひとえに記者自身の解釈の相違にすぎないだろう。それでも、例えば福音書記者だが、共通した三つの目的意識は窺える。

第一に、彼らはイエスの復活と永遠の命の教えを提示しようとした。
第二に、イエス自身によってあるいは昔の預言者によって、イエスの死とよみがえりを予告するものを枚挙しようとした。
第三に、後にイエスの復活を記念する日となった最初のイースター(復活祭)の夜明け前に起こった出来事の輪郭をなぞろうとした。

他の新約聖書の記者は、福音書の内容だけとは限らないが、すでに信者の間では受け入れられたイエスの復活物語から、イエス自身あるいは使徒や初めの信者たちが、復活に関して神学的にどのように理解していたかを描写しようとしたと言える。なかんずく、パウロは、復活がキリスト教の使信(メッセージ)の核であることを確立するための重大な役割を担った

使徒行伝においても、パウロはしばしば、己の体験を踏まえて、イエスの死と復活の意味を語るのであるが、以下のコリント人への手紙においては、彼自身が既に一種の信仰箇条としてこれらを使徒から受け取っていたことがわかる。少し長いが、馴染みのない読者のためにも、聖書から引用してみよう。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりにわたしたちの罪のために死んだこと、葬られてこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペテロの別名)に現れ、その後十二人(十二使徒)に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たち(信徒の仲間たち)に同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に……わたしにも現れました。(コリントの信徒への手紙 第一 15:3−8、新改訳間違い新共同訳です)


このパウロの受けたものという復活の次第は、ほとんど様式化した信仰箇条とも言える。しかし、この中には、福音書などでは確かめられない「五百人以上もの兄弟たち」などの項目がある。実際に、コリントで話したとき(ヴァメーシュは、このときを紀元53年と見ている)を考えれば、イエスの死後(復活後)23年程度なので、エルサレムまで行けば証人はたくさんいるということであろう。

このように、パウロの書簡が書かれたのは、最初の福音書マルコ伝が書かれた年よりも15年程度早く、ヨハネ伝が書かれた年よりも45年は早いのであるから、史実を検討するに当たって、パウロ書簡を重視する伝統はうなずける。そして、この最も古い証言を見れば、不思議なことに埋葬までは出てくるが、空の墓とか肉体の復活は、このフォーミュラに現れないことだ。

(Dr. Marksコメント:伝承の成立と伝播ということを考えると、かならずしもパウロの証言が福音書の証言よりも古いとは言い切れない。また、空の墓の記述の欠如が、かならずしもパウロは空の墓を知らなかったという結論に導くものでもない。「葬られ」の次に「復活し」があるが、その間に「空の墓」を挿入することはむしろ不自然になるからである。「空の墓」=「復活」は当然のことであって、フォーミュラに組み込むほどのことはなかったはずである。詳しくは拙著。)

パウロの主張=フォーミュラで、もう一つ特筆すべきことは、ケファすなわちペテロとヤコブに現れと、この二人を名前を挙げて特別の証人としていることだ。パウロは自分自身のダマスコ街道での復活のイエスとの邂逅を、この二人に続くあるいは同等の体験として語り、自分自身の使徒性を主張することになる。ここでは、二つの問題を挙げておく。福音書のような証人としての女を一切排除していることである。証人はすべて男だ。次に、当然のこととして、予想できるだろうが、福音書の記事が本当なら、空の墓に言及する場合は、この証人としてはやっかいな女を出すことになってしまうという問題だ。

ともかく、ハデス(地獄)からこの世に帰還することなど馬鹿げているというのが常識のギリシア文化のこのコリントの町で、パウロは自信たっぷりに「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか」と挑むのである。次回は、テサロニケの信徒への手紙第一とコリントの信徒への手紙第一から、再度パウロの復活の教えを見て行こうと思う。