企業法務戦士の雑感 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2018-07-07

[][][]「平成」の時代とともに葬り去られた事件史。

金曜日、突如として飛び込んできた「麻原彰晃の死刑執行」のニュース*1

そして、今朝の朝刊を見て、この執行が、元教祖だけでなく当時、新聞、雑誌等で名前を見かけない日がなかった元教団幹部たち6名に対しても同時に行われたことを知った。

法務省は6日、地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教の元代表、松本智津夫死刑囚(麻原彰晃、63)ら7人の死刑を執行したと発表した。一連の事件で死刑が確定した元教団幹部ら13人の中で初の執行となった。1995年の逮捕から23年。2019年5月の改元を控える中、未曽有のテロや凶悪事件の「平成」決着をにらみ、執行時期を探ったとみられる。」(日本経済新聞2018年7月7日付朝刊・第1面)

事件からもう23年。元代表の刑の確定により、裁判が事実上終結してからも、かれこれ10年くらいの月日が流れている。

元号が変わってからまだ10年に満たなかったあの頃、不幸な出来事が連鎖する時代背景の中、まだちょっとだけ残っていた新しい時代への期待感は「オウム真理教」「サリン」という言葉と共に雲散霧消した。まさに、あの事件は「平成」という時代の運命を決定づけるほどのインパクトがあった事件だったわけだが、今、あの頃の雰囲気がどれだけ正確に伝えられているか、そして、あの頃「謎」とされていた様々なことが、時代の経過とともにどれだけ解き明かされたか、といえば、何とも心もとないところがある*2

自分は決して「死刑反対派」ではない。

むしろ、故意に凶悪犯罪を犯したことが客観的に証明されていて、かつ、自省の念すら示さない者に対しては、極刑をもって処するのが当然、という思想の持ち主である*3

だから、松本智津夫死刑囚に対する執行や、未だに教祖への帰依を続けている死刑囚(実際にいたかどうかまでは承知していない)に対する執行を不当、というつもりは毛頭ないのだが、様々な出来事のディテール、特に、「事件」にならなかった教団組織内でのあれこれが必ずしも全て解き明かされていない状況で*4、今、全ての「生き証人」たちを闇に眠らせる必要があったのか・・・。

法に則った刑事訴訟の手続きが尽くされていればそれでよし、裁判上の記録に残され裁判所が判決で認定した事実が全て、という刑事司法の建前を承知しているからこそ、最後まで「周辺」からしか事件の核心に迫ることができなかったジャーナリズムの非力さを感じざるを得なかった*5


個人的な経験を語るなら、ちょうどあの頃、自分は、大学に入ってくる新入生に「オウムみたいな変な組織に引っかからないでくださいね」と呼びかける側にいた人間で*6、それゆえ、当時問題視されていた「分かっていても引き込まれてしまう若者」とはむしろ対極にいたはずだった。

だが、当時飛び交った様々な報道に触れ、あの、得体のしれない組織に引き込まれていった人々の背景に触れれば触れるほど、当時から“主流”の論調となっていた、

「最大の「なぜ」は、学歴も常識もある、素直で真面目な多くの若者たちが教団に魅入られ、教祖のもとで無差別殺人に突き進んでいったという事実である。」(日本経済新聞2018年7月7日付朝刊・第2面)

という問題提起をする人々の感覚の方に付いて行けなくなっていた自分がいた。

なぜなら、当時の自分自身が、「ありのままの世の中」をストレートに受け入れて、周りの人間と同じように真っすぐに常識的な道を進んでいく、という価値観を全く受け入れられていなかったからだ。

幸か不幸か自分はヨガにも超能力にも全く興味がなく、そして、そういった胡散臭い魔の手に触れる前に、全く正反対の、悪魔的に魅力的な組織、活動の方に足を踏み入れてしまったから、今回の死刑執行のニュースも、コーヒーを飲みながら「他人事」として眺めていられるのだが、それはほんの偶然、運の良さゆえだったのではないか、という思いは今も昔も変わらずに抱いている。

だからこそ、当時は、したり顔の大人たちに対してはもちろん、同世代の人間に対しても、「なぜ社会の本流から外れた世界に魅入られる同世代の人間の感覚を理解できないのか?」という不信感を密かに抱いていたし、あれから20年以上経った今になっても、同じような問いかけが繰り返されるのを見てしまうと、世の中の進歩のなさ、共感力の乏しさに少々がっかりした気分になる。

そして、当時、自分が唯一ピンと来ていなかった「なぜ、社会に失望して入信した人々が、閉鎖的な組織の中で作られたヒエラルキー(いわば社会の縮図)の中で、極めて組織的な動きをするに至ったのか?」というテーマも、皮肉ながら、自分のその後の「極めて常識的な」組織(会社や職能団体から、労働組合や異業種横断活動に至るまで・・・)の中での経験で、しっくりと理解できるようになった。

どんな集団でも、普通に日々を過ごしていれば何かしらのヒエラルキーが形成されていく。

そして、その中で一員として認知されたい、という思いが、多くの人々を「組織の論理」に縛り付け、組織が向かっていく方向が「分かっていても引き返せない」状況にじわじわと追い込んでいく。たとえ、それが決してほめられない、場合によっては法の一線を踏み越えるようなことだったとしても。

要するに「オウム」という組織の在り様や、彼らがやってしまったことは、社会に生き、組織に生きる多くの一般市民にとっては決して異次元の話ではないのである。

世間的には一流と思われている業界、会社、団体等の中にも、人々のちょっとした疎外感や挫折感を原動力として膨らんでいく部門やサークル、派閥といった類の組織は必ず存在するし、そういった組織が持つ求心力、一体感が規範を踏み越える方向でことを起こす、というのは決して稀な出来事ではない。

それゆえ「オウム」を語る上で、「カルト」とか「反社会的」といった修飾語は本来不要なものといわざるを得ず、彼らの起こした出来事を「テロ」事象として解説するよりも、「コンプライアンス違反」事象と対比して解説した方が、よほど教訓事例として生かせるのではなかろうか・・・*7

なお、最後に今回の死刑執行に記された「松本智津夫死刑囚」やその他の幹部たちの年齢を見て、あの事件を起こした時の教団幹部たち(それも「年長者」と位置付けられていた人たち)が、今の自分よりも下の世代だったのだ、ということに気付き、軽い衝撃を受けた。

23年前から群れに従うことを好まない、という点では一貫していたから、ズルズルと組織の論理に縛られて何かをしでかすことはないだろう、と楽観視して生きてきたのだけれど、立場上、この先、自分が「教祖」となって誰かの道を誤らせるリスクもまた、常に付きまとってくるのだ、ということを心に刻んで、生きていかねばならないのかもしれないな、と。

*1:もっとも翌日の朝刊にすぐに「特集」記事が掲載されたところを見ると、大手のメディアは既にこの動きを事前に知らされていたか、察知していたものと思われる。

*2:自分が8年前、当時の事件の回顧記事を見て記したエントリーが、http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20100320/1269231039だが、あの頃の違和感は未だ消えていないし、あの事件が「テロ」というフレーズで普遍化されればされるほど、むしろ強まっている。

*3:人間の「生命」がいかに重大な法益だとしても、自らが犯した第三者に対する法益侵害との比較衡量によって、その価値を否定されることがあるのはやむを得ない、という考えに立っている。

*4:なぜなら、これまでに「回顧」録を出している人々は、核心となる事件の最中に「本丸」にいなかったり、仮にいたとしても「周辺」からしか物事を見られなかった人たちだから。

*5:もっとも、終焉の地に移送される直前まで、彼らと接触していた人々は少なからずいたようだから、この後、一つ二つ、“肉声”で核心を解き明かそうとするメディアが出てきても不思議ではないし、そういう動きが出てきてほしい、と自分は密かに願っている。

*6:95年に地下鉄サリン事件を引き起こす前から、「オウム」は既に十分過ぎるほど学生たちを巻き込んだトラブルを起こしていたし、公式行事へのフロントサークル等の参加も厳しく制限される状況だったと記憶している。もちろん、そういったトラブル誘発団体は他にもたくさんあったから、今ほど「特別」な団体として扱われていたわけではなかったのだが…。

*7:その意味でも、事件のおどろおどろしさ、生々しさを極力排除した形で、かつての教団の意思決定過程の深層に迫る記事が、もっと出てきてほしいと思うところである。

2018-05-26

[][]ありがちなニッポンの反応〜GDPR“プチ”祭りに思う。

年が明けた頃はまだ知る人ぞ知る、の域を出ていなかった欧州発の「GDPR」だが、ここに来て俄然盛り上がってきた。

これまでもちょこちょこと軽いジャブを打っていた日経紙は、24日の朝刊で何と1面にデカデカと「EUデータ新規制 国内企業8割が対応未了」という見出しの記事を掲載。

良く中身を読むと、GDPR(というか欧州法律にすべからく共通する)ルールの不明確さが強調されていたり*1、「どこまで対応しようとしているかきちんと説明できれば、いきなり多額の制裁金を科せられる可能性は低い」というIIJのビジネスリスクコンサルティング本部長のコメントが紹介されていたり、と、一方的に対応の遅れを非難するような記事ではさすがにないのだが、それでも、

「流出問題の大きさなどによっては制裁を回避できるとは言い切れない。専門家は「できる限り早く体制を整備すべき」と口をそろえている。」(日本経済新聞2018年5月24日付朝刊・第15面)

と、最後はやっぱり煽っている・・・(苦笑)。

自分は、この問題に関しては、

EU域内に限定した話だと思っていた」

とか、

GoogleFacebookのような一部の巨大インターネット企業に向けられた法律だと思っていた」

といった(記事の中では、一種Disられている)感覚の方が正しいと思っていて、欧州向けの通販サイトや情報サービスサイトを持っていない会社がわざわざコンサルに大金を講じて対策を依頼するのは愚の骨頂だし、仮に欧州向けのサイトや、欧州域内の事業拠点を持っている会社であったとしても、取得した個人情報を取引の処理以上の目的に使用せず、システム上も一通りのセキュリティ対策が講じられているのであれば、基本的にはこれまで通りの対応で何ら問題ないと思っている。

そもそも、Personal Dataの取扱いなんて、当の欧州の中ですら、米国発のインターネット企業を目の敵にする一部の市民運動家以外は、さしたる関心を持っていない分野の話*2。1年くらい前に、現地の法律事務所に別件ついでに感触を聞いてみた時も、反応はびっくりするくらい冷静だった。

今回の件に限らないが、情報源が限られている“海外発”の概念とか法律が出てくると、ごく一部の“有識者”がしゃしゃり出て、自分のポジションから好き勝手煽る、そして、それを真に受けたメディアがそれを拡散して、本来であれば全く縁のないような人まで騒ぎ出す、というスパイラルが始めることがこの日本という国では実に多い。

そして、今回のGDPRの件にしても、そのうち「全てのWebサイトCookieを通じた情報取得の同意画面ポップアップを設定しないといけない」*3とか、「EU域内から日本にやってきた外国人から個人情報を取得する時は、他の国の人の分とは異なる厳格な同意フォーマットにサインさせないといけない」*4とか、挙句の果てには「欧州に出張して名刺交換するときは、相手から個人情報取得の同意書面をもらわないといけない」*5とかいった話まで出てくるのではないか、と、ワクワク(?)しているのだが、果たしてどうなるか。

あまりに複雑かつニッチな分野ゆえに現在は“プチ”に留まっている祭りが、何かの弾みで大きなお祭りにならないことを、自分は心の底から願っている。

*1:なお、記事の中では、GDPRを「日本の規則と比べものにならないほど細かく、複雑」と評しているが、本文にはほとんど書かれていないことを複数のガイドラインで規定し、かつそのガイドラインも一読しただけではよく分からない、という意味での規制体系の「複雑」さはその通りだとしても、「細かい」というのはミスリードのような気がする。少なくとも日本の規制当局のガイドラインの方がよほど細かく、融通が利かない(それに比べればGDPR自体は、規制というには非常にアバウトなものだ)と自分は思っている。

*2:当事者である著名なインターネット企業に対しては、発効初日から早々に訴訟提起の動きも出ているようだが、そこまでされるほど欧州で名の通ったインターネットビジネス事業者は、日本企業の中にはほぼ皆無、というのが現実である。

*3:少なくとも日本語のサイトにこのような対策を講じる必要はないし、英語サイトでも欧州からのアクセスがほとんどないようなサイトについてまで対策を講じる必要は全くない、と思っている(下手に見慣れないポップアップ画面など設けた日には、あちこちから苦情が殺到しても不思議ではない。

*4:これは「域外適用」の考え方についての誤解で、あくまでGDPRは「EU域内にいる者」を対象にサービスを提供する場合の個人情報の取扱いに網をかける法律だから、日本に入国した後に自社のサービスに接するEU在住者への特別な対策は本来不要である。

*5:全世界的に煽り的な営業をしているコンサルや一部の法律事務所ですら名刺交換については事実上スルーしているように見える。当地の実務家の感覚によれば、「そんなこと法律に書くまでもない常識でしょ」ということらしいが、いずれにしても、「例外規定がない限りクロ」という日本のコンプラ頭で海外の法令を読み解いて対策を講じようとするのは、労多くして実りなし、である。

2018-03-11

[][]早すぎる時の流れの中で 〜7度目の「3・11」

ここ数年、3月に様々な出来事が集中していて、ブログもろくろく更新できないことが多いのだけれど、そんな中でもこの3月11日だけは必ず何か一言は残すようにしている。

ついこの前のことのように思い出されるあの日から、1年、2年、3年・・・と確実に時は過ぎ、とうとう数えてみたら「7年」。

自分の仕事は、あの頃も今も本質的に大きくは変わっていないし、身の周りの環境にも大した変化はない。

それゆえに時の流れを感じようがなかった、といえばそれまでなのかもしれないが、震災後のよもやまにいろいろとかかわってきた者にとっては、「消滅時効特例法」が可決されて「3年→10年」になった時の安堵感*1もあと3年しか続かない、ということに、少なからぬ衝撃を感じている。

毎年「被災の爪痕」を伝えてきた各メディアでも、日経紙が1面に「(被災都市が)中心部をコンパクトに再建」という記事を載せたように*2、かなり前向きなムードが前面に出ているのは確か。

忘れ去られ、消え去るよりは、前向きなニュースとして取り上げられる方が地域にとってもメリットは大きいのかもしれない。

ただ、どれだけ時が経っても、かの地には、未だ様々なもやもやが渦巻いている。

そして、そういった感情、魂の部分を抜きにしても、「災後処理」がまるで終わっていない分野がある、ということは、決して忘れられてはいけないと思っている。

金銭では取り戻せないものがある以上、どこまでいっても「完全な賠償」というものはあり得ないのかもしれないけれど、せめてそこに少しでも近づけるように。

そして、“フクシマ”という限られた地域に対してだけではなく、日本という国そのものに痛すぎる爪痕を残したあの事故の教訓を決して風化させないようにすることは、自分も含め、災後を生き続ける全ての者に課せられた義務、だと思うのである。

*1:当時のエントリーは、http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20131227/1388593404

*2:個人的には、取り上げられた地域の市街地の姿(「中心部」といっても、人が暮らすために活用できるエリアは決して広くなく、昼夜に賑わっているエリアは極めて小さい)も目に焼き付いているだけに、「人口密度が増えた」といったところで統計誤差の範囲内のレベルに過ぎないでしょう・・・という溜息はどうしても出てきてしまうのだが。

2018-01-09

[]再びの「夫婦同氏強制」違憲訴訟の行方

2015年末に「民法750条合憲」の最高裁判決が出た時は、やっぱりな、という感想しかなくて、それ以上何かどうかしなくては、などとは全く思いもしなかったのだが、ここに来て、また勇気ある人々が現れた。

「結婚時に夫婦別姓を選べない戸籍法は法の下の平等を保障する憲法に反するとして、ソフトウエア開発会社「サイボウズ」の青野慶久社長(46)ら4人が9日、国に計220万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。夫婦別姓を禁じる民法の規定を合憲とした最高裁判決から2年。結婚後の姓を巡り、再び法廷で争われる。」(日本経済新聞2018年1月9日付夕刊・第10面)

昨年末にNHKでも取り上げられていて、いつ提訴するんだろう、と思っていた矢先の話。

原告を代表しているのが、数年前に育休取得で話題を集め、最近では「働き方改革」にも物申す等、一家言持つ経営者の方ということもあり、さすがだな、という思いは強い。

純粋な法律論の観点からすれば、「そもそも戸籍法って、民法の人事関係規定の施行法のような位置付けの法律ではなかったっけ?」という素朴な疑問も当然出てくるところだし*1、平等原則違反の根拠として、

「日本人と外国人の結婚・離婚や、日本人同士の離婚の場合は戸籍法にもとづいて姓を選べるのに、日本人同士の結婚では姓を選ぶ規定がない点」(同上)

を挙げているのも、ちょっと筋が悪い気がする*2

ただ、先の最高裁判決の際の原告側主張のように、「男女不平等(女性差別)」を前面に出して争ったところで、法廷で「夫婦同氏強制」の壁をぶち破ることは到底できない*3から、ここで、男性である青野社長自身が前面に出て、より本質的な問題である「社会的な不利益」を全面に押し出してきた、というのは、問題提起としては大きな意味があるのではないかと思っている。

裁判官が通称使用で判決を書ける時代になったとはいえ、やっぱり、傍で見ていて、「事実上の」ものに留まらない不利益はたくさんあるように思うので。

もちろん、戸籍法に縛られない生き方*4を選択してしまえばそれがある意味最強(笑)なわけだし、違憲判決や法改正を待つまでもなく、それが氏名と相互の独立性を維持したまま生き続けるための最も簡単で手っ取り早い方法だと自分は思っているのだけど、誰もが同じことをできるわけではないことも十分承知はしているだけに、今は良識ある人々の賢明なる判断によって事態が好転することを期待したい。

*1:戸籍法第14条1項の規定(戸籍上の氏名記載順序に関する「夫婦が、夫の氏を称するときは夫、妻の氏を称するときは妻」という規定)や、同法第74条1号の規定(婚姻時の届出事項として「夫婦が称する氏」とする規定)等を見る限り、民法750条の規定が当然前提となっているように思われるし、その民法750条が合憲と認められているものである以上、戸籍法にその例外規定を置かないことが違憲か、と言われると、???という気になってしまう。

*2:外国人との結婚の場合、そもそも外国人が日本の戸籍に組み込まれるわけではなく、あくまで事実上記載されるだけだと思うし、前提となる日本の民法750条も適用されないのだから、日本人同士の婚姻の場合とは前提が違いすぎるように思う。

*3:だって、法律のどこにも「妻が夫の姓に改めなければならない」とは書かれていないのだから・・・。また、今、事実上そうなっているからといって、未来永劫そうとは限らないわけで、将来的には、夫が妻の姓に合わせるのが主流になることだって考えられるのだが、そうなったらもう同氏強制でもいいよ、ということにはならないはずだ。

*4:要は婚姻届を出さないまま夫婦関係を継続する、ということ。

2018-01-08

[][][][]正月のスポーツ中継を眺めながら眺めた論文。

毎年のことだが、この時期は、様々なスポーツイベントが目白押しである。

元旦にニューイヤー駅伝とサッカーの天皇杯、2日、3日に箱根駅伝を見て、そこからしばらくは高校サッカー、ラグビー、そして最近定着した春高バレーが続き、「成人の日」までには大体ピークを迎えて大団円・・・という感じで。

今年は、成人の日が早いタイミングで巡ってきたせいか、高校サッカー、ラグビー、バレーボールの決勝が全て同じ日、ということになってしまい、しかも、競馬開催日にもかち当たる、ということになってしまったため、TVチャンネルの高速切り替え技術を駆使する羽目になったのであるが、まぁそれでも、サッカーの試合だけはきちんと見られたのが何よりだった*1

で、そんな中、タイミング良く(?)昨年末に届いた『ジュリスト』1月号に目を通すことができた。

ジュリスト 2018年 01 月号 [雑誌]

ジュリスト 2018年 01 月号 [雑誌]

単に表紙に色が付いた、というのみならず、巻頭から新連載で「債権法改正と実務上の課題」という待ちに待った企画*2が始まる等、相当読み応えのある新年号だったのだが、毎年この時期恒例の「知財」の特集が「スポーツビジネスと知的財産」というテーマになっているのがまた興味を引く*3

そして、その特集の中でも、特に、池村聡弁護士が書かれた「プロスポーツと放映権」という論稿*4は、ひときわ光を放っていた。

この論稿は、

「スポーツビジネスにおいて重要な取引対象となっている『放映権』と呼ばれる権利を巡る法的問題について、我が国のプロスポーツビジネスを念頭に、若干の検討を行うもの」(前掲42頁)

であり、「放映権」の法的性質、根拠から丁寧に解説を加えているのだが、池村弁護士は、まず法的根拠を解説するくだりで、通説とされている「施設管理権説」(会場の施設管理権に法的根拠を求める見解)をバッサリ切って、「主催者説」(費用、リスクを負担してスポーツを主催(実施)すること自体に法的根拠を求める見解)を支持する姿勢を明確にしている。

そして、その帰結として、第三者による無許諾撮影に関しては、以下のような形で権利行使が可能、としているのである。

「主催者説によれば、一般不法行為(民法709条)が成立すると解することにより、こうした行為が損害賠償請求の対象となるとの構成が可能である。知的財産権侵害が成立しない場合における一般不法行為の成否に関しては、諸説あるところであるが、これを限定的に考える見解によっても、一定の違法性の強い行為に対しては、不法行為の成立を認める。」

「スポーツイベントの主催者は、多額の会場費や賞金その他の各種運営費を負担し、大きなリスクを取ってそのスポーツを実施するとともに、放映権取引によって収益を上げているところ、かかる利益は既存の知的財産権とは異なる法的利益である。そして、主催者に無断でスポーツを撮影し、広く配信等することは、その態様によっては主催者の利益を侵害する違法性の強い行為であると評価され、不法行為の成立を構成するものと理解される」(46〜47頁)

北朝鮮映画事件の最高裁判決を引きつつ、「特段の事情」に該当しうる、と断言するこの強気さには心底ほれぼれするし、実際、あの判決に風穴を開けられるとしたら、高額の対価が動く「スポーツ放映権」くらいだろうな、というのは、自分も思うところ。

もちろん、自分が全面的にこの意見に賛同しているか、といえばそうではなく、「主催者説」&「一般不法行為」の構成だと、池村弁護士が問題にしているような「高画質な無断撮影映像を多くの者がアクセスするサイトで配信する行為」に対して差止請求権が行使できないではないか、という突っ込みがあるし、そもそも、そういった無断配信によって放映権の取引額に影響が生じるような事態にでもならない限り、因果関係のある損害を観念できないのではないか*5、という疑問も抱いている。

スポーツ中継の実態を踏まえれば「主催者説」の方が馴染むのは間違いないとしても、エンフォースメントまで考えると、主催者(施設管理者)側が約款で一方的に「無断撮影/無断配信禁止」といった契約条件を付すことができ、それに基づく行為差止めや約定額の賠償請求まで(やろうと思えば)やることが可能な「施設管理権説」の方が遥かに使い勝手が良いはずで、

「試合会場に立ち入ることなく施設外から行われる(施設管理権を侵害することなく行われる)撮影等」(前掲46頁)

を警戒するがゆえに、法律構成まで変えてしまうのは、いささか気が早いようにも思えてならない*6

ただ、こういう刺激的な論稿を読んだ後にスポーツ中継を見ると、また一段と味わいが増すわけで、主催者ロゴの入った映像に直接・間接(あまり大きな声ではいえないが・・・)に触れる機会が多い五輪、W杯イヤーとなればなおさら、なので、ここは感謝の意を込めてご紹介させていただいた次第である。

*1:ゴールポストまで味方に付けた流経大柏の堅守に惚れ込んで熱を入れて見ていたのだが、それを最後の最後で打ち破った前橋育英の執念には、心の底からこうべを垂れるしかない。

*2:第1回は、中井康之弁護士が道垣内弘人教授、能見善久教授と対談する、という始まりになっているのだが、なかなかディープなところまで突っ込まれている良い対談になっているので、次回以降に益々期待が高まるところである。

*3:唯一気になるのは、執筆者が特定の法律事務所に偏っているように感じられたところだが、そこはご愛嬌、ということで。

*4:池村聡「プロスポーツと放映権」ジュリスト1514号42頁(2018年)

*5:要は、その無断配信サイトが相当長期間定着し、テレビ中継やインターネット配信の視聴率が下がった→結果的に放映料も低下した、ということにならない限り、訴えたところで制裁としての実効性のあるような賠償支払義務は負わせられないのでは?ということ。

*6:池村弁護士は「ドローン」による撮影等を想定されているようであるが、会場内にドローンを侵入させて撮影するような場合であれば、本人が施設外にいようが、「施設管理権」に基づくコントロールは可能だろう。また、高精度の機材を用いた施設外からの遠隔撮影も理屈の上では可能だが、そうやって撮影された映像が、鑑賞に堪えるだけの臨場感を持ったものになるほど技術が進化した時代であれば、「施設内で撮影された映像」にも更に異なる付加価値が加えられているはずで、結局のところ、公式映像が「施設管理権の及ばない環境下で撮影された映像」に市場を侵食される日が来る、という想定自体がどうにもしっくりこない。

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