sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

カプースチンは上原ひろみを作曲する


 気が重くなるような長文エントリが続いたので口直しに、Youtubeから音楽映像をご紹介。冒頭にあげたのは、ロシアのジャズ・ピアニスト兼作曲家であるニコライ・カプースチンの《ジャズ・エチュード》第3番。「3倍速チック・コリア」みたいな作品である。まるで、上原ひろみインプロヴィゼーションを書き起こしたかのような音の密度。

 続けて《ジャズ・エチュード》第1番。この作曲家の作品集は近年日本でも楽譜が出版されていて一時期、アマチュアのピアノ奏者の間で話題になっていたそうだけれど、こんなの弾ける人いるの?って思う。この演奏者がすごいだけ?

 作曲家ご本人による《前奏曲》。これはまだ普通な感じで、前のふたつの映像で弾いている人に比べるととても「ジャズらしく」聴こえる。「ジャズっぽく聴こえる演奏には、和音だけでなく、タッチやタイム感が大きな要素として絡んでくるのだなぁ」と思った。

 ピアノ・ソナタ第2番と楽譜(第4楽章)。楽譜が黒い……。

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

 昨日書いたエントリに「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。
 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。
 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。
 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。
 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげられるのは文化、というか儀礼的なものがあるかもしれない。音楽学者、岡田暁生による『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 』にはこんな記述がある――「この時代(19世紀末〜20世紀初頭)にあって『交響曲を演奏する/聴く』とは、ほとんど一つの宗教体験だった」(P.192)。19世紀末〜20世紀初頭といえば、現代においてクラシックと呼ばれる西洋音楽が最もさかんに演奏され、円熟に達した時代である。そこで設定された崇高な体験の場としてのコンサートという場はいまだに意味を失っていないのかもしれない(『パルテノン多摩』というネーミングからもそれは察することができよう)。
 こうなると私のようなタイプの人は、みんな「クラシック教(狂)信者」ということになる。もし「クラシック好きな人ってなんでそこまで厳しくするの?」と不思議に思う方は、その怒りを「俺らがマジメに神さまにお祈りしてるのに、ガサゴソやりやがって!」的に解釈していただければ良い。それを「バカみたい」と嘲笑されても構わないのだけれど、やはり少しは気を使って欲しいというのが本音である。同じチケット代金を払って、一方は気楽に楽しみ、一方は不快な気持ちになりながら音楽を聴かなきゃいけない、っていうのはなんだか「マジメな人ほど損をする」みたいで悔しい。

チベットと「美しい国」の心性、それから他者

 チベットであれこれ起きて、結構死んだ人が出たっつー事件があった。私としては、基本的にノンポリだし、っつーかチベットと中国の政治事情についてよく知らんので「大変だなぁ」と思うぐらいなのだけれど、いくつかのブログやmixiの日記などに書かれた事件について文章は興味深かった。具体的にここで「この記事」とあげることはしないけれど、事件について書いた人の多くが「中国政府はひどい。チベットは抑圧されていて可哀想(チベット独立賛成!)」みたいなスタンスだったように思う。
 たしかにデモで集まってる人にバンバン鉄砲撃っちゃうのはひどい。ここは素直に納得できる。でも「チベット独立賛成!」みたいな発言はよくわかんない。これはあまりに無責任で現実が見えてない発言だと思う――独立してどうするのか?やっていけるのか?そこまで見据えた人でなければ、こういう発言はしてはいけない気がする。そうでなければビョークとかジョン・レノン(現実見てない人!)とまとめて一緒に叩かれても仕方ない。
 思うに、こういう発言をおこなう人には「独立即ち良いことである」と考えられるような思考回路が備わっているのではないか――これは言い換えれば、現実的な利益ではなく、民族の独立と自決という「メンツ」の問題のほうが国民のためになる、という非常に美的な国家の捉え方である。ここで、こういう美的なナショナリズムについての宮台真司の発言をひいておこう*1

日本で国益という場合、世代によってふたつの異なった受け取り方があります。ひとつは国民益という考え方で、これは計算可能なものです。
ようするに、国民にとって利益になるかどうかを徹底的に分析する。コスト分析やリスク評価をして、どういう選択がどういう利益または不利益をもたらすのかを考え、利益を増大させ、不利益を減らそうとする立場です。
その一方で、魂のふるさととしての国体に殉ずることを国益とする立場もある。国体に殉ずる精神的な営みから見た場合、計算可能な国民益が低下するような選択であっても、あえて国益だと見なすわけです。
典型的には「一億総玉砕」という発想ですね。国民の全員が死に絶えても、国家の尊厳が維持されるとします。

 美的なナショナリズムは、もちろん「一億総玉砕」のほうに位置する。宮台は「(こういう考えは)若い人には理解しがたいかもしれない」としているのだが、「チベット独立賛成!」という意見をいくつも見ていると、実は隠れたところで戦中と同様の心性は受け継がれているのかもしれないな、と思ってしまう。こうなると安倍晋三が一時人気だった理由も明白である。美的ナショナリズムの人にとっては、中身が全くなくて、キレイごとばっかり言ってるほうがウケるんだろうから。
 中国政府に対する非難、これについても少し引っかかるところがある。デモを起こす人を抑圧する。ここには少なからず、国益の問題が絡んでいるだろう(チベットが独立したりすると、中国政府がどういう風に困るのか、全然知らないけど)。困るから、抑圧する。これはまた、国家のなかに得たいの知れない他者が現れるという問題への対応でもある。暴力によって他者を黙らせる。
 デメリットが生じることへの対策としてこれらを行うことは当然なことではないのか、と私は思う。というか、現にそのような他者への不寛容さを発揮する人が日本にもいるにもかかわらず、中国政府を非難することは果たして正当なものなのだろうか、と思うのである。
 サリン事件後にオウム信者が受けた差別や反対運動、あるいは「学会員は気持ち悪い」というような発言。在日問題でも良い。近くにある不寛容さを適当に放置して、遠くにある不寛容さばかり攻め立てるのは「なんか違うなぁ……」と感じたりする。「全く別問題でしょ!(似たような問題だと考えてるのはアンタだけだよ!)」と言われたら、それでおしまいなんだけど。