創価学会と大乗非仏説

 前回のエントリーで「大乗非仏説」(大乗経典は後代の人が考えたもので釈迦の教えではないんでないの?)について触れました。この説によれば、真言宗とか天台宗とか日蓮宗とか浄土宗とかは誰が考えたのか良く分からん教えを守ってずっと修行したり説法してきたことになります。

 しかし、大乗非仏説は日本では明治以降にもたらされた考え方です。それまでの日本では、「たくさんお経があるけど、釈迦はいっぱい教えを説いたんだなぁ」と素直に思っていたわけです(※1)。で、そうなると、どのお経を一番重視すればいいのか、という問題になってきます。そこで人それぞれにお経にランク付けをしていきます。仏教宗派が色々と分かれているのは、一つにはこのランク付けがあったからです。「うちはこのお経が一番効果絶大だと思うんだ」「うちはこれだと思います」といった具合に分かれていったのです。

 そして、最澄天台宗では「法華経」を最重要視しました。しかし、比叡山天台宗)は当時の総合大学ですから、法華経以外にもアレやコレやと色々なお経を取り扱います。まあ、そりゃそうですよね。お経が全部釈迦の教えだとすれば、たとえ法華経が一番重要だとしても他のお経だって尊いってことになりますから。ですが、そんな比叡山の八方美人な姿勢をディスったのが、鎌倉仏教を代表するヒップホッパーであるMC日蓮でした。

 マジでリアルな日蓮は「一番大事なのはとにかく法華経なんだYO!」と主張します。比叡山で学んだ彼は、おそらく「法華経が一番大事」という比叡山の教えに影響を受けたのでしょう(伝説では「虚空蔵菩薩から智慧の宝珠を授かり、経典の勝劣を見極められるようになった」らしいですが……)。それで、ここから日蓮宗が生まれ、現在の創価学会にも繋がっているわけです。だから創価学会でも法華経が一番大事で、「南無妙法蓮華経法華経にマジで帰依しますよ!)」と朝晩唱えているわけです。

 さて、大乗非仏説は創価学会にとっても問題になってきます。天台宗では「法華経は釈迦が最後に説いた教えだから一番スゴイんです」と言ってたわけですが、大乗非仏説を採るならば、そもそも法華経は釈迦の教えではなかったことになります。釈迦の教えではないから「一番最後だから一番スゴイ」という論理も成り立ちません。日蓮天台宗のこの判断を信じてたわけですから、「法華経がとにかく一番エラい」という日蓮宗創価学会の言い分にも意味がないことになってしまいます。これは一大事ですね。日蓮系宗教存亡の危機と言ってもいいくらいです。

 では、創価学会の信者の人は、どうやってこの問題を心理的に解決しているのか、こういった問題点をどうやって乗り越えて信仰を保ち続けているのか。僕はその点に興味があり、かつて、ある信者の方にその点を聞いてみたんですが、

「へぇー。そんな話があるのか、全然知らなかった」
「でも別に知ったからってどうってことないなあ。フーンって感じ」
「たぶん、他の人に聞いてもそんな感じだと思うよ」

 という返事が返ってきました(※1)。心理的にどう解決するかという以前に、こういった疑問に至る機会がそもそもあまりないみたいです。そして、それを知ったところで特に何を思うわけでもない、と。僕みたいな外部の人間からすると、「えーっ、そこって一番重要なトコじゃないのー!?」って感じなんですが、どうも外部者が思うよりも「どうでもいい」ことのようです。

 ちなみに、創価学会の人にとっては釈迦の位置付けもそう高いものではありません。僕たち部外者からすれば、「そうはいっても創価学会も仏教系なんだから、釈迦を一番リスペクトしてるんだろう」と考えますが、実際は、

池田大作日蓮>>>>(越えられない壁)>>>>釈迦」

 こんな感じです。彼らがリスペクトしているのはあくまで日蓮であって池田さんであり、釈迦などは「昔のインド人」くらいのニュアンスでしかないのです。これは別に創価学会に対するレッテル貼りでもなんでもなく、信者の人から直接に聞いた話です(もちろん信者さんの中にも個人差はあると思いますが、「他の人もたぶん大体こんな感じ」とのことです)。

 どうも彼らの感覚からすると、釈迦の教えは古臭くて使い物にならず、それを鎌倉時代に使えるようにしたのが日蓮、そして、現代でそれを使えるよう解釈しているのが池田さんといった感じのようです。「法華経読んでも難しくて全然分からんけど、池田先生なら僕たちでも現実に使えるよう巧く解釈してくれる」といったイメージで捉えると分かりやすいかと思います。

 まあ、「法華経が釈迦の教えであろうとなかろうとどうでもいい」という態度は、日蓮宗のそもそもの起こりを考えるといい加減っちゃいい加減なのかもしれませんが、翻って考えると現実主義的とも言えるかもしれません。創価学会の人たちは「比叡山のランク付けで法華経が一番大事とされているから」法華経に帰依しているわけではなく、「実際に法華経に帰依してたら幸せな実感があるから」法華経に帰依しているわけです。宗教が人をハッピーにするものだと仮定するならば、これも本質的っちゃ本質的な態度なのかもしれませんね。


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 ちなみに、こういうことを考えると、カルト宗教にハマっている人を説得する時に、「あの宗教は間違っている。だって、**が**なんて論理的におかしいじゃないか。そういうおかしなところに気付けば、お前も脱退した方がいいって分かるだろう?」というやり方はそれほど効果的じゃない気がしてきますね。創価学会の人も「学問的には破綻している」と指摘したところで特に信仰が揺らぐことはなかったわけです。皆が皆そうではないでしょうが、論理的な問題点は彼らが現に感じている「幸福感」からすれば、大した問題ではないのではないかと思われます。


※1 なお、創価学会の幹部の人にも聞いてみたところ、彼は流石にこの問題も知っており、「私は他にもいろんな経典を読んで読み比べてみたけど、その結果、やっぱり法華経が一番スゴイことが分かったから法華経を帰依してるんだよ。別に天台宗がそう決めたからじゃないよ」とのことでした。


紹介:江戸時代に大乗非仏説に気付いちゃって、みんなから総すかん喰らった人

出定後語 (1982年)
出定後語 (1982年)
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富永 仲基
隆文館