奈良時代に鑑真が伝え、平安初期に最澄が開く。
cf. 比叡山延暦寺、三井寺(園城寺)
治承元年五月五日、叡山の座主〈ざす〉、明雲《めいうん》大僧正は、 宮中の出入りを差しとめられた。 同時に、天皇平安の祈りを捧げるために預っていた、 如意輪観音《にょいりんかんのん》の本尊も取上げられた。 更に検非違使庁《けびいしのちょう》を通じて、 神輿を振り上げて、 都へ押し寄せた張本人を摘発せよという命令もきていた。 こうした、矢次ぎ早の朝廷の強硬策は、 先の京の大火事に原因と理由があったろうが、 もう一つには、とかく、法皇の信任厚い西光《さいこう》法師が、 あることないこと、山門の不利になることばかりを、 後白河法皇に告げ口したためであった。 そのため、法皇は、ひどく山門に対する心証を害…
ご維新の激動期にヲシテ文献の散逸を憂慮し、貴重な写本を残した高島の旧士族、野々村立蔵(水尾神社祠官)は、容聡本を西万木の日吉神社に奉納するにあたり『秀眞政傳紀 傳來由緒書』を記し、この文献の伝来の経緯を後世に伝えました。その文中に、伝教大師最澄とヲシテ文献との関わりに触れるくだりがあります。 「天皇御文庫爾有者、中古桓武天皇、僧伝教大師爾託之賜布、是比叡山爾秀真政伝紀石室爾納留者也」。すなわち、八世紀末の当時、宮中に秘蔵されていた『ほつまつたゑ』は、桓武天皇から伝教大師最澄に(何らかの理由により)下賜され、大師はこれを磐屋に納めて秘匿奉祀した、と伝えているのです。 漢訳を手がけた和仁估容聡の井…
次に考えてみたいのは、前記事の4にあげた「円珍に対して中傷を行ったり、行跡に乱れがあること」である。実はここに円珍と円載の仲が悪くなった、直接的かつ最大の原因があるのだ。 前記事で述べたように、2人の衝撃的な再会から半年後、円珍は円載と落ち合うために越州へ行く。円載はなかなか来ず、実際に落ち合ったのは蘇州においてであり、そこから共に密教の灌頂を授かるべく長安へ向かった。 その途上の潼関の宿にて、円珍は円載より酷く罵倒されたわけだが、この争いの原因は何だったのであろうか?円珍はその原因を述べていない。だが推測することはできる。 円珍は渡唐の際、お供の僧を何人か連れてきている。その中の1人に豊智と…
円珍は円載との出会いを「在唐巡礼記」という書物に書き残している。この書は現存しないのだが、「在唐巡礼記」を要約した「行歴抄」という書物が後世になって編纂されたおかげで、2人の出会いはどんなものであったのかが分かるのだ。当該部分に手を加えて要約してみよう。 ――馬に乗って寺にやってくる老人がいた。兄弟子の円載だ。息せき切って彼の下に駆け寄って礼拝し、涙を流して喜んだ。ところが円載の顔には喜色はみえない。思いがけない反応に、頭から冷や水をかけられた思いであった。昔、比叡山で机を並べていた先輩後輩の仲であったのに、この態度はおかしい。一体どうしたことだろう。話をしても全く聞いていない様子。どうやら日…
遣唐使に選ばれた多くの僧たちが大陸へと渡ったが、その正確な人数はデータが残っていないので分からない。遣唐使を構成するメンバー数は、前期は200~250名ほど、後期は5~600名ほどであったが、そのうち僧は何名ほどいたのであろうか? 遣唐使に関する記録が最も残っているのは、第19回目である。なぜ残っているのかというと、この遣唐使には前々回の記事で紹介した、あの円仁が参加していたからだ。彼は「入唐求法巡礼行記」という、遣唐使についてのみならず、7世紀の中国に関する社会風俗についてなど、極めて優れた記録を残している。 この記録によると、第19回遣唐使の参加人数600名ほどのうち、留学僧ないしは請益僧…
最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか? まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海の真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低…
密教を日本に持ち込み、更にその教義を発展させた空海。新興勢力であったにも関わらず、官寺である東寺まで賜り、これを密教の専修道場とするなど、日本において確固たる地位を築き上げたのであった。一方、日本仏教界のもう一方の新星であった、最澄はどうであったのだろうか? 日本において「天台宗」を開宗するため、天台の教えを学びに大陸に渡った最澄。帰国してから念願叶い、天台宗は南都六宗に肩を並べる存在になったわけだが、当時の皇室と貴族には、現世利益を叶えてくれる最新の教えであった「密教」のほうがウケが良かったのは、過去の記事で紹介した通り。そこで求められるまま灌頂や加持祈祷を行ったわけだが、己の密教に対する力…
奈良期は日本の歴史上、仏教が最も権力と結びついた時代である。それがピークに達したのが、769年に発生した政治僧・道鏡による皇位簒奪の動きである。この企て自体は失敗したが、こうした動きに象徴されるような寺社勢力の強大化、そして僧侶の退廃ぶりも目立つようになってきた。 794年、桓武天皇による平安遷都が行われる。目的のひとつは政界からの寺院勢力の排除であった。「仏教都市」であった平城京には、数多くの巨大寺院が存在したが、新都である平安京には(当初は)東寺と西寺、この2つの官寺しか許されなかったのである。 桓武天皇は他にも、新規の造寺・寺院による土地購入・営利事業の禁止などを定め、寺社勢力の力を抑え…
僧侶による性暴力の実態 坊主に逆らうと地獄に落ちると脅された尼僧の性暴力被害 なぜ14年間も性暴力被害を訴えれなかったのか 他の宗教団体でも性暴力の問題が報告されている? 僧侶による性暴力の実態 2024年1月31日、東京で行われた会見において、寺の僧侶から約14年にわたり性暴力などの被害を受けたとする女性が証言しました。この女性は、僧侶の僧籍を剥奪するよう求めています。被害者は、僧侶からの脅迫や暴行を受けながら、長い間声を上げることができなかったと述べています。この事件は、僧侶という立場にある人物からの性暴力の実態を浮き彫りにするものであり、社会的な問題として注目されています。 坊主に逆らう…
山科にある毘沙門堂は天台宗五箇室門跡寺院の一つで、今までは洛東の隠れた紅葉の名所だったが、今では外国人も多く訪れていた。 最大の見どころはこの参道であり、 この日は二組が結婚写真の前撮りをしていた。 写真では分からないかもしれないが、好対照の二組であった。
福岡県直方市🌸樹齢500年の迎接の藤(こうじょうのふじ)#定禅寺 定禅寺(弁城)では、毎年「迎接の藤(こうじょうのふじ)」が4月中旬から月末にかけて1メートルほどの紫の花房を境内一面に咲き誇り、県内や県外から花見客が訪れ、賑わいます。 昭和37年7月に福岡県の天然記念物に指定されました。 「誰もに接し、愛でてほしい」との意を込めて「白雲山 迎接院 定禅寺」の院名にもちなんで「迎接の藤」と命名したそうです。 力強くねじれた幹が500年の樹齢の壮絶な月日を感じさせてくれます。 福智町の花のシンボルとして、長きにわたり君臨しています。 福岡県直方市🌸樹齢500年の迎接の藤(こうじょうのふじ)#定禅寺…
東京国立博物館に行く途中、隣に未訪のお寺(開山堂・両大師)を見つけました。寛永寺は訪問済ですが、その開山堂にはまだ行ったことがありませんでした。基本情報と共に紹介していきましょう。 【目次】 開山堂(両大師)の基本情報 山門 手水舎 本堂 阿弥陀堂 開山堂(両大師)のお地蔵さん 地蔵堂のお地蔵さん 阿弥陀堂のお地蔵さん 開山堂(両大師)へのアクセス 開山堂(両大師)の基本情報 開山堂(両大師)は天台宗のお寺で、山号は東叡山、寺号は輪王寺。明治二年寺号は廃止されたが、明治十六年に復活するとともに門跡の公称が許可されました。門跡とは、皇族や公家が住職を務める特定の寺院を指します。 ちなみにその名前…
ここ数年、ひとつの問題に答えを見出すべく悩み続けています。 とある寺院を訪れたときのこと。本堂でお参りをしていたら、隣に親子連れがいらっしゃいました。お父さんは神仏に真面目に向き合うことを息子に教えようと、厳しい口調で言いました。「礼して、もう一回礼して、ほら、二回するんだ。はい、パンパンして、最後にもう一回礼して、こらっ、ちゃんと礼して」という具合に。息子は途中でふざけようとしましたが、父親の真剣さが伝わり、ギクシャクしながらも教え通りにしていました。間違った知識が親から子に受け継がれていく瞬間、私は何も言えませんでした。 この「お寺でパンパン問題」は、何もこの時だけでなく、あちらこちらで見…
天台宗 神木山 等覚院 , ツツジ , Canon EOS RP , RF 50mm f1.8 こんにちは!!こーちゃんです!! 今回は天台宗 神木山 等覚院とその周辺を散歩してきました。 そして初めてミラーレスで撮った写真も載せていきます!!
海自ヘリ墜落 原因究明し態勢検証を(2024年4月24日『北海道新聞』-「社説」) 海上自衛隊の哨戒ヘリコプター2機が伊豆諸島の鳥島東方海域で訓練中に墜落し、1人が死亡、7人が行方不明になった。 2機は衝突した可能性が高いという。人為的なミスなのか、機体やシステムの問題か。海自は行方不明者の捜索に全力を挙げるとともに、再発防止のため事故原因を早急に究明しなければならない。 気がかりなのは近年、自衛隊ヘリの事故が頻発していることだ。そのたびに対策を講じているはずだが、それが生かされていないのであれば、問題の根は深い。 政府は、中国による台湾有事などを想定し、急激に防衛力を増強している。自衛隊の訓…
一条真也です。静岡から小倉に戻った翌日となる24日の早朝、右手の中指の激痛で目が覚めました。見ると、深爪した部分からばい菌でも入ったのか、真っ赤に腫れあがっています。朝一番で主治医のいる合馬医院を訪れ、抗生物質と痛み止めのロキソニンを処方してもらいました。飲むと、痛みは治まりました。その後、会社に寄ってから福岡空港へ。 福岡空港の前で 福岡空港にて 今日は福岡空港からANA機に登場して、沖縄の那覇空港に飛ぶのです。元旦の能登半島地震の発生によって新年に行けなかったので、じつに久々の沖縄出張となります。25日に名護宮里紫雲閣の竣工式、26日に合同慰霊祭および海洋散骨に立ち会う予定です。 ANAラ…
最近、天台宗の尼僧さんが、14年間、同じ天台宗の僧侶から性暴力を受け続けていたと、告発するニュースがありました。。。。。 14年間???何と異常な事でしよう。 南伝仏教 (原始仏教/テーラワーダ) では、女性が出家の比丘と会う時は、必ず、もう一人女性を同伴しなければなりません。同伴する女性は、隣に座って、比丘の話を一緒に聞き、その内容を理解できる年齢の者でなければなりません。。。 要するに、比丘からの性的な要求や金銭的な要求のあった時に、それを証言できる女性が同席して、比丘と女性の会話を傍聴しなければならないのです。。。。。。。 これは、ゴータマ仏陀の決められた戒律の基本です。。。日本の大乗仏…
今回の散策は、わたしの家から比較的近い東京都狛江市です。この地域は、多摩川沿いに「狛江古墳群」があり、そこに古い寺院、神社があるので巡ってみました。 散策コースは、小田急線狛江駅から直ぐの「泉龍寺」から始まって、西の方へ「経塚古墳」、「兜塚古墳」そして「伊豆美神社」、そこから南下し「亀塚古墳」です。1寺院、1神社、3古墳を短時間で廻れる絶好のコースです。 先ず「泉龍寺」ですが、1200年以上の歴史がある古刹です。狛江駅の北口に出て西側の弁天池通りを行くと程なく泉龍寺の山門です。 山号:雲松山 寺号:泉龍寺 宗派:曹洞宗 創建:天平神護元年(765) 開山:良弁(ろうべん)僧正 本尊:釈迦如来 …
現存する最古写本を残した和仁古安聡は俗名を「井保勇之進」と名乗っていました。池田満氏の解説によれば、井保家は伝教大師最澄の頃に遡る旧家とされますが、果たして、井保の名前はどこから来たものなのでしょう。 そもそも後の比叡山建立の根本仏(秘仏)に縁がある(788年、最澄は薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を比叡山に建立)という万木の薬師堂が子守大明神社とともに護持されるようになったときから、井保坊の名前が世に顕れたとのことですが、その時には既に長らく当地の名家として、井保家は存在していたのでしょう。 「井保坊は、二十三代大鶴軒孝阿に至るまで妻帯しなかった」と池田解説にありますが、そもそも坊は学侶…
《 御神島紀行 その2 》 雄島―平泉寺白山神社―岡太神社・大瀧神社―御神島―常神社 平泉寺白山神社 「平泉寺白山神社へいせんじはくさんじんじゃ)」は、福井県の勝山市平泉寺町に鎮座しています。 ここは「白山信仰」の越前国側の拠点でした。 白山は、泰澄により717年に開山されましたが、天台宗の比叡山延暦寺系の寺でした。 明治時代になって、神仏分離までは仏教寺院の「霊応山平泉寺」でした。 その後は、白山神社として「平泉寺白山神社」となって今日に至ります。 しかしながら―――平泉寺の歴史には、数多くのドラマがありました。 泰澄によって「白山」が開山されて、平安時代以降は比叡山延暦寺の勢力下に入り、「…
桓武天皇(在位781年~806年)が行幸したとされる平安京の水運の拠点とされる淀津について取り上げる。弥生時代から明治にわたるまでの遺構がみつかっているという。関連し、與止日女神社が祭っているのはトヨであることを明らかとする。次の流れで紹介していく。 ・淀津(よどつ)・弥生時代から奈良時代までの出土・関連:葛野大堰(かどのおおい)・関連:與杼神社(よどじんじゃ) 千観内供(せんかんないぐう) 佐賀県佐賀市の與止日女神社(よどひめじんじゃ) ■淀津(よどつ)所在は京都市伏見区淀水垂町。 長岡京からの遷都時、桓武天皇が訪れたとの記録が日本後紀に残る。 平安京の外港として栄えたという。 港を持たない…
亀岡市 第21番穴太寺は、亀岡市に所在する唯一の札所です。この亀岡市、京の都の北西部に位置しています。有名な、嵐山に流れている桂川の上流にあり、渓谷を流れ下る保津川下りの起点となるところです。戦国時代に名を馳せた明智光秀は、この地に丹波亀山城*1を築くとともに、城下町を整備して都の防御を確たるものにしたのです。 京都市に程近い亀岡市。今は、京阪神のベッドタウンの位置付けもありますが、落ち着いた町並みや農地なども残っていて、山深い丹波の国へと踏込んだ、独特の雰囲気が感じられるところです。 穴太 第21番目の札所である穴太寺は、”あなおじ”と呼ぶようです。ただ、お寺で頂いた資料には、”あなおうじ”…
境川の北側にある茜部の長森縣神社から、境川を越えて南側、その昔は尾張葉栗だった柳津の地へ。そこで聖徳太子にまつわる伝承地を辿る。 光澤寺は、6世紀に聖徳太子が創建した太子寺。その鎮守として、境内に穴太部(あなほべ)神社を創建したと。つまり、穴太部天神を祀る式内社の尾張国葉栗郡の穴太部神社のことだ。 ここがその有力な論社として、祭神として古天神の天穂日を祀ってること、聖徳太子が由来となってることから極めて説得力がある。式内論社のもうひとつは、木曽川の下流へ南下した一宮の玉ノ井にある賀茂神社だ。地名に穴太部があるくらいで、こちらの由来は薄っぺらく祭神からも消えている。強いていえば、先に述べたように…
さて平安期の仏教は(南都六宗も天台も真言も)貴族のための宗教であったわけだが、浄土思想や末法思想にうまく対処できず――というよりも、開き直りに近い姿勢を見せて――平安末期頃から台頭してきた、武士や庶民たちのニーズを満たすことができなかったのは、前回の記事で述べた通り。 だがもし仮に、例えば真言宗が真摯に彼らに向き合ったとしても、そのままの教えでは、彼らに受け入れられることはなかっただろうと思われる。 過去の記事で述べたが、密教の教えというのは端的にいうと「スーパーマンになる」ことを目指した宗教である。現世からひとり、高みへと昇る。救われるのは自分、ないし自分が導く弟子たちだけ。彼らは加持祈祷で…
札幌【占い.口コミ.当る.2024年】北大前、夢占館(ゆめせんかん)の石原聖山(いしはらせいざん)『北区の占いの父』が貴方の【2024年!!干支「甲辰(きのえ・たつ)」】を的確に占う!2024年4月22日(月) 札幌北区の占いの父ー 夢占館(ゆめせんかん)の石原聖山が貴方の 『2024年!!干支「甲辰(きのえ・たつ)」』 を的確に占う!占い歴25年、お悩み相談人生アドバイザー 『占い&お悩み相談BOX夢占館(ゆめせんかん)』 ー石原聖山の元気が出る世界の名言,格言をあなたに・・・2024年4月22日(月) 今日の名言 『一人の人を愛し、その人を死ぬまで守り抜きなさい。いい人生を生きて、いい友人…