ヒラメとカレイの見分け方

2011-04-15 ローズ と ローズ の見分け方

横浜近鉄


4月15日(金)

田村ゆかりMary Rose

武道館

参加してきました。


セトリ※間違ってるとこあったら、すみません


1.Love me now! (シトロンの雨)

2.Picnic琥珀の詩)

3.Happy Life (十六夜の月

MC1

4.プラチナ Lover's day (プラチナ lover's day)

5.Spring fever (琥珀の詩)

6.Dont' wake me Up! (tomorrow c/w

桃色男爵紹介

7.流れ星ジェニー (めろ〜ん音頭c/w

8.yours ever (アコースティック) (Sincerely Dears

9.flolal blue(アコースティック)(プラチナlover's day c/w

桃色メイツダンサーパフォーマンス

10.baby blue sky (Love parade c/w

MC2

11.Super Special Day (ときめきメモリアル2 Blooming Stories6 伊集院メイ)

12.恋に落ちたペインターシトロンの雨)

バンドパフォーマンス

13.恋のアゲハ (木漏れ日)

14.神聖炉 (シトロンの雨)

15.星空のSpica十六夜の月

めろ〜ん音頭練習〜

16.めろ〜ん音頭 (めろ〜ん音頭)

ねことゆかりんのマジック?コーナー〜MC3 めろ〜ん

17.おしえて AtoZ (シトロンの雨)

18.You&Me (シトロンの雨)

19.恋せよ女の子(銀の旋律)

20.Cherry Kiss (木漏れ日)

21.この指とまれプラチナlover's day c/w

22.チェルシーガール (十六夜の月

EC1

23.Graditude(シトロンの雨)

MC4

24.fancy baby doll (銀の旋律)

25.Super Special Smiling Shy Girl (you&me)

今回、神聖炉が聴けたのが個人的にはうれしかった。あの演出は『キル・ビル』超えてたかなw

あと、前後で靖国神社花園神社行ったw

明日も楽しみー

2011-04-07 偶然 と たまたま の見分け方

テキトウにレベルあげて進化したら 偶然

イシで進化したら たまたま


最近、ネット上で知らない人と会話をしていたのですが、相手が

「オリジナルも模倣も結局は一緒でしょ。」

と言うので、

「時間を考えないで、今一瞬、だけを考えたら一緒だけど、時間軸におけば座標的に違いがあるんじゃない?」

と言い返しました。

そのあとは、

「そういう曖昧なことは無視してる。」

と話を終わらせられてしまったのですが、このあと、時間がない世界というのを考えました。

結果、思いついたのが、人生を情報処理の残像をとらえるということでした。


自分を目として世界を光とします。そして、ある一瞬だけ私が光の中に投げ込まれたとします。そこで、世界は終了です。

そのときに目に入った光が知覚されていく情報処理を人生と考えました。

目の前にある光は一つではなく、たくさんあるものとして、それぞれ違う大きさをもっています。その長さに着目して、さまざまな光をまっすぐ目の前に並べていきます。

すると長さの差が出てくるので、それを時間的なものと考えます。

そのようにすれば、世界を一瞬のものと考えられると思ったのですが、それだと、変化について説明できない気がします。

そこで、目が長い光に対して可能性を読み取ると考えました。光の長さのうちに目が順序よく処理できる可能性を見出していくのです。先に見きれる短い光ほど多くの可能性をもちますが、あとは、それまでの可能性に従って、より秩序だった可能性を選び取るようにします。その可能性は私たちが知覚している世界の物理法則などとして現出していきます。

こう考えていくと一瞬の世界で人生が作られているので、人生が因果律の元に流れていくとも考えられますが、常に、多数の可能性をはらんでいるようにも思います。

この人生の最後はどこにあるのでしょうか。

ここで2つの場合が考えられます。

一つは、可能性の秩序に従って、私がいなくなるとき。

二つ目は、光の処理を終えた時です。

秩序として私がいなくなった世界を見ていても、まだ長い光が残っています。そこでそれを処理する過程を心霊状態と考えました。物理的肉体を失った私でも、そのように世界を知覚しつづけます。その心霊がどのように知覚している世界に対応するかは、可能性の問題となるでしょう。


どの道、人生が処理の歴史であるならば、面白いように考えたほうが、余生を楽しく生きられるんでしょうかね・・・

D

ゆらゆら帝国の時間って曲はあがってないのかなw

2011-03-27 小さな幸せ と 小さな不幸せ の見分け方

なるべくたくさん集めよう!


3月27日は「さくらの日」だそうだが、その理由は3×9(さくら)=27という語呂合わせと、開花時期が近いかららしい。

3×9=27は

3の1乗×3の2乗=3の3乗と1,2,3の数が並ぶ綺麗な配列になっている。

一年間でこのような日が他にどれだけあるか考える。

この場合、月の数の3乗に日の数がなればいい。

月の日数は28から31までの間なので3乗した数がその数に収まるのは、

1,

8,

27

の3つしかない。

よって、nの1乗×nの2乗=nの3乗

となるのは、

1月 1日(1×1=1、1の1乗×1の2乗=1の3乗)

2月 8日(2×4=8、2の1乗×2の2乗=2の3乗)

3月27日(3×9=27、3の1乗×3の2乗=3の3条)

以上の3つだけだ。

1月1日は言わずもがな、一年の一日目であり、元日として有難い価値をもっている。

3月27日も最初に述べた通り「さくらの日」だ。

では、2月8日はなんだろう。8という数字もどこか不吉だ。しかし、ここで一年間の日数と照らし合わせてみる。

2月8日は一年の始めから39日目。ここで3,9という数がでる。365日残り日数は326日・・・

閏年ならどうだろう。

39日目、残り327日。

4年に一度の2月8日は一年の39日目残り327日。

ここに、2,4,8と3,9,27の数を見つけることが出来る。

3月9日、さくらの日から2月8日を考えたとき、4年に一度、不思議な出会いを起こすのだ。

2×4=8

4を2つ合わせて8になる日ってことで「幸せの日」とも

始めの2から「不幸せの日」とも捉えられよう。

やっと出会える幸せか、4年に一度という不幸せか、非常にロマンチックな日だ。

2011-03-24 トゥルー・ロマンスとトゥルーグリットの見分け方

スコット兄弟の方が トゥルー・ロマンス

コーエン兄弟の方が トゥルーグリット


『トゥルーグリット』観てきました。今更ながらのコーエンデビューです。


以下、ネタバレです。


まず、ストーリーは父の仇討の話ですが、そこには少女の成長が描かれていました。

1969年の『勇気ある追跡』のリメイク的作品のようですが、そっちは観ていません。


ヘイリー・スタインフェルド演じるマティ・ロス(14歳)は大人と子供の間くらいの年頃です。この映画は全編通して、少女を背中から捉えるカットが多用されています。


お金がらみでオッサンと交渉するシーンでも、切返しでそれぞれの正面から取るカットの間に、少女の背中越しに相手を見るカットが挟まれます。保安官について行くときも後ろから歩く少女のさらに後ろからのカットが挿入されていきます。

お下げ髪の背中には、まだ幼さが残っているように感じました。


少女と旅を共にする二人のオッサンは見た目こそオッサンですが、急にスネたり、キレたりと、少年の部分もかなり併せ持っています。


そこから紆余曲折を経て仇討に成功します。


途中、突然背後に男が現れるシーンと、ネッドをマッドデイモンが遠方から射撃して、ネッドがパタリと倒れるシーンはちょっとダサいなぁなんて思ってしまいました。マッドデイモンの尾行を待ち受ける、雪の中のシーンとかは、シュールな感じで割と好きでした…


少女自身の手でカタキを打つことになるのですが、その後、少女は穴に転げ落ちます。


そこからのシーンに少女の成長が示されていました。


まず、「穴」におち、「蛇」に噛まれ、「男の腕の中」で意識を失っていきます。次のシーンは、25年後、立派な女性になったマティロスです。

このシークエンスは女性の成長の儀式と捉えられるでしょう。


マティロスは保安官に会いに行きますが、そこに保安官はもういませんでした。しかし、蛇に噛まれ片腕を失ったマティロスは、片目を失っていた保安官を彷彿させます。


保安官の墓石を訪れた後のシーン、そこには、大人になったマティロスの背中があります。

2011-01-13 遠近法とサモ・ハン・キンポーの見分け方

遠くに入れば小さく見えるのが遠近法

どこにいてもデブゴンなのがサモ・ハン・キンポー





最近ヒョギフの誘いで柿喰う客という劇団を観に行った。


普段、芝居と彼が呼ぶようなものは観ないのだが、映画演出の演劇に受ける影響が大きいというのは以前から知っていて、特に溝口健二などが顕著に影響されているというので、興味を抱いた次第だ。


前情報として彼から「会話が少ない芝居」だと聞いていた。


まず、劇場に入場して目にしたものは謎の立体であり、それが舞台となるのか否か、いざ始まるまで想像の域をでなかった。

そして、その立体の上で芝居は始まった。

奥に行くにしたがってせり上がる舞台は遠近感を誇張する。

それが、ある種ゴシック調に統一された演技と相まって独特の世界観を生んでいたのか・・・


さっき丁度ヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』を観たのだが、その中で以下のように語られる。


映画は会話する二人の間の空間に成立する



とか、そんな感じで・・・。



彼の映画の特徴として背景が綺麗というのがあげられる。


例えば、会話する二人がカメラに寄って立ち話をしていても、背景は奥行きを振る舞う


彼の映画のタイトルには、よく地名が入れられている。

そこがまさに舞台となり映画となるのだろう。


遠近法は単純に言えば、小さく描けば遠くに見えて、大きく描けば近くに見えるとかそんな感じだが、今、自分たちの目はそのようなことは当然のことと受け入れ、二次元に過ぎない写真に奥行きを見ている。平面なモニターにも。


普段の視界すら二次元であるのに、それを意識する瞬間は少ない。


みんなが無自覚なのだから、そこでつかれている嘘にも気づきにくい。

映画の演出、絵の技法、写真の撮り方はそこに成立している。


東京タワーを手の上に乗せているような写真を見たことがあるし、写真の上で、像が手のひらに収まることもしばしば・・・


ただ、それが監督の見せたかった映像なのだとしたら、そこは素直に受け入れ、その非現実性を楽しむべきだと思う。


ベンダーズの映画に関しては、彼はリアルなことを撮ろうとするので、誇張されきったことはあまりないけど・・・


また、遠近法の嘘として、平面に書いた立体がある。

こんなことは実際ありえない。

絶対に奥に向かって縮小していくわけだから。


そうだそうだ、ここに来てやっと書きたいことを思い出した!


絵も写真も画面も奥に行くに従って小さく縮小される。

映画は四角い。

「」