days of cinema, music and food

徒然なるままに、食い・映画などの情報を書いていきます。分館の映画レビュー専門ブログhttp://d.hatena.ne.jp/horkals/もあります。

震度5+


少し揺れたと思ったら、徐々に揺れが増幅し、これはいかんと皆で机の下に隠れました。
金曜14時半からの会議中の事でした。
この時、幸か不幸か私は通常勤務している20階建ての本館ビルではなく、同じ敷地内にある別のビル、5階建てで長さ200m程のビル5階の実験室にて打ち合わせ中でした。
しかし古い建物ゆえ、耐震工事もしていません。
天井から吊り下げられた大型の旧式エアコンがぐらぐら揺れ、今にも落下しそう。
「Yさん、そこ危ないから机の下に隠れて!」と、パーティションで囲まれた同僚に叫びました。
同僚Sさんの机上にあったディスプレイがばたっと転倒しました。
数分くらいに感じましたが、実際には2-3分程度だったのでしょう。
普段から地震慣れしていて落ち着いていたとは言え、それでもこれだけ長く揺れを感じる地震は初めてでした。
後にこれがマグニチュード8.8(13日に9.0と訂正)、震度5+と、日本での観測史上最大の地震だったと分かります。


地震が収まってから、皆で建物外側の非常階段を使って外に出ます。
請負や派遣の方も多いので、チーム全員が居るのを確認しました。
敷地内はかなり広く、小さい公園並の芝生ゾーンもあります。
避難訓練の時同様に、そこで待機する事になりました。
広場はあちこちの建物から出て来た人々で埋まりつつあります。
お喋りなどしていると余震が発生しました。
外で立っていても体感するくらいだから、結構な震度でしょう。
本館ビルを見ると、ぐらりぐらりしなっており、窓ガラスが全てたわんでいるのが分かります。
これも1-2分は続いていたと思います。
私の職場で避難が始まったのはようやくこの時だったようです。
幹部社員の判断が若干遅かったですね。
知った顔も広場に集まってきます。
敷地内では2,000人以上が働いており、最終的にはほぼ全員が建物外に出たようでした。
建物内では各自に支給されているPHSで外線・内線に掛けられるのですが、建物外では電波が弱く使えません。
私のチームのリーダーが幹部社員に連絡を取ろうにもアンテナが立たず、14階のメンバーがどうなったか確認しに本館下まで向かいました。


IT関係なので皆、ガジェット好き。
早速携帯電話でワンセグ放送を見始める人もいました。
震度や火災の様子などの情報が、リアルタイムで入って来ます。
私の携帯電話はドコモですが、通話もメールも全く繋がらず。
通話規制を掛けられていたようです。
机の下に隠れていた時には全く思ってもいなかった規模だと分かって来ました。
また、最寄り駅も含めて電車は全て運行停止。
帰宅の困難も予想されます。


30分もすると、避難関連を管理する人々がヘルメット姿であちこちカウントを始めました。
「はい、第9地区オーケー!」
そこですかさず私「我々は宇宙人と認定されました。撃ち殺されないよう気を付けましょう。この後、第10地区に移送予定です」。
請負の方々全員が笑ってくれましたが、皆さん映画にお詳しいようで('∀`)


やがて14階の人々がぞろぞろ広場にやって来ました。
労組職場員のM君が旗を持って先頭にいます。
そちらに合流すると、皆、コート姿で鞄を持っており、すぐにでも帰宅出来そう。
私のコートや定期券・クレジットカードが入った鞄は14階の自席。
現金はポケットに入れていますが、ちょっと困ったなぁ。
地震発生時、余りの横揺れで気分が悪くなった人も多く、また窓のブラインドは目茶目茶に乱れ、壁面ロッカーのスライド式扉は全て開き、積み重なった書類は崩れ落ちたとか。
ビル上層階はそれだけ揺れたのですね。


芝生の上で盛んに冗談飛ばしまくって皆を笑わせていましたが、季節は冬、しかも曇天。
コート等の上着を着ていない人、サンダル履きの人もいます。
幸いにも私はスーツ上下、革靴だったのですが、それでも夕方になっていく時間帯なので、徐々に冷え込んで来ました。
さらには新人のW君は元々風邪で体調不良、顔色も白くなって来ています。
ぽつりぽつり雨も時々落ちて来ました。
皆、明るいものの、いつまでここに居るんだという不満も高まって来ます。
部長を見つけて、これからどうするのかと訊くと、「いやぁ、こっちも指示待ちなんだけど、何も来ないんだよねぇ」。
後で知ったのですが、緊急事態の通信ルートでは全く何の連絡も無く、しかし二度目の地震でこりゃ危ないと判断して職場から出て来たそうです。
緊急時の判断や決断、情報網など、自社の危機管理に関してかなり不安を残しました。


屋外に出て1時間半後ぐらいでしょうか、ほぼ全員の所在確認も取れたので解散となりました。
帰宅出来る人は帰宅しても良いという事です。
帰路に着いた人が殆どのようですが、本館ビルに入る許可も下りたので、私は荷物を取りに14階に戻る事にしました。
より巨大地震が来ないよう念じます。
エレベーターは運行停止、非常階段を上ります。
上から降りて来る人もいるのと、階段は普通の階段なので渋滞。
こりゃ片道30分くらい掛かるかと覚悟しましたが、途中からは殆どガラガラになりました。
踊り場でふうふう言って休憩している肥満気味の人もいました。


事務所は閑散としていましたが、よくよく見れば少々散らかっているものの、異常は余り感じられません。
しかしブラインドは全て上げられています。
私の机上にあったもらいもののお菓子は、散乱していたのが片付けてもらえたようです。
幹部社員の席(トップ写真)では、転落防止にわざとディスプレイが倒されていました。
PCでツイッターやニュースで震災の規模や状況等を確認しました。
ネットが繋がっているというのは凄い。
PCのテレビモードで数人、ニュースを見ていました。
電車も動いていないし、バスやタクシーも期待出来ない。
保育園に居る娘を回収するにも、これは遅くなりそう。
自分の携帯電話でも、会社の電話でも、妻に連絡は着きません。
ビル内の公衆電話も通じず。
エレベーターホールには何故か水漏れも発生していました。
着くように願いながら、携帯メールを発信しました。
歩いての帰宅も覚悟しなくてはならないかな…。


周囲が薄暗くなりそうな中、どうやら広範囲に停電が発生しているようです。
会社の敷地内を見下ろすと、ここだけ何事も無かったかのよう。
自家発電でまかなっているようです。
近所に住む先輩は、自宅が停電、トイレも流れないのでと、事務所に戻って来ました。
政府の方針としては二次災害を防ぐ為にも、基本的には帰宅しないようにというのが姿勢のようですが、娘を考えると帰宅しない訳には行きません。
出発前に自動販売機でフルーツジュースを1つ買い、コンビニが閉まっている可能性を考慮して、防災訓練でもらった非常時用カンパンも鞄に入れました。
職場に残った同僚・上司・先輩らに軽く挨拶し、同僚のOさんと一緒に階段を下ってビル外に出ます。
18時でした。
同じ会社勤務の夫と正門で待ち合わせるというOさんと別れて敷地外に出ると、自動車のヘッドライトを除いて真っ暗。
街路灯、コンビニ、店舗、駅ビル、全て停電しています。
ここは本当に夕方の都心か、と疑う光景でした。

自宅最寄り駅から2駅離れた鷺沼行きのバスを待ちますが、待てど待てど来ません。
痺れを切らして今度はタクシー乗り場に向かいます。
駅前を通ると閉鎖されていました。

公衆電話ボックスには10人以上の行列が出来ていました。
タクシー乗り場は裏道沿いなので、さらに真っ暗。
2メートル先に人の顔も判別出来ません。
前に並んでいる人にタクシーの運行状況について尋ねると、「全く来ないねぇ」。
このままでは時間が過ぎるばかりなので、徒歩で行けるところまで行くことにしました。
2つ隣の溝口駅ならば、バスもタクシーも大きなターミナルがあります。
取り敢えずそこを目指しました。


歩く人々は多く、中には懐中電灯を持っている人も目立ちました。
普段から準備の良い人もいるものです。
とにかく全て停電で、振り返ると私の会社のみ煌々としています。
灯りは自動車のヘッドライトが頼り。
大きな交差点では警官が信号の役目を担っていました。
時折、救急車や消防車がサイレンを鳴らして走り過ぎます。


高速道路の第三京浜下に来ると、急に明るくなりました。
道路1本隔てた先は停電していないようです。
ラーメン屋も営業し、満席且つかなり待つ様子。
溝口中心部は遠くから見ると平常通りで、丸井ビルも明るくそびえていました。
そんな時、若い女性が引っ張っていた小さなキャリーカーから荷物が脱落し、私も含めて数人で荷物を拾いました。
線路の向こう側に渡りたいものの、踏み切りは全てカンカン鳴っている状態。
警官に聞くと、「すみません、閉鎖中です」。
電車は動いていないとの事です。
無意味じゃないかと思いつつ、先を進みました。


溝口に到着すると、バス停は意外にも閑散としています。
バスの便が余り来ていないように見えました。
タクシー乗り場は長蛇の列。
4時間くらい待たないと乗れそうもありません。
そこで今度は隣駅の梶が谷を目指します。
開いているコンビニで清涼飲料水、チョコ掛けシリアルバーを1つずつ購入しました。
公衆電話から妻、実家、保育園に電話するも相変わらず通じず。
元地元ですので勝手知ったる裏道を歩き進みました。
1時間もアスファルトを歩くとさすがにふくらはぎがパンパンになりだし、足裏も少々痛み始めます。
しかしこの日は幸いにも、ゴム底の革靴でした。
普段、革靴は出来るだけ革底のものを履いていて、雨天時のみゴム底のものを履いています。
この日はローテーション通りならば革底靴だったのですが、たまたまゴム底のものにしていたのです。
これが幸いして、足裏の負担も少なかったように思います。


到着した梶が谷も通常通りに電気が来ており、駅前のモスバーガーは満員。
持ち帰りの客でごったがえしていました。
コンビニ、喫茶店も通常通りの営業です。
バス停に並ぶとお目当ての鷺沼行きが2台連続して来ました。
1台目に人々が乗車中、2台目のドアが開いていたのを良い事に、列から外れてそちらに乗車しようとした若い女性連れ2名。
運転手は気付かずドアを閉めようとして、1人が挟まれかけました。
「いやぁ、びっくりしたなぁ、もう。そちらに並んで下さい」と運転手。
女性2人は非常識だと列に戻ってから数分間、文句を言っていましたが、そりゃどう見てもあなた達の方が非常識でしょう。
幸いにも2台目に座れたので、しばし休息を取ります。


目をつぶるといつの間にか鷺沼に到着しました。
1時間程経っていたので道も混んでいたのか、それとも遠回りの順路なのか。
鷺沼駅近辺は明るく、駅前のケンタッキー・フライドチキンも営業していました。
買って帰ろうかとも一瞬思いましたが、自宅最寄あざみ野駅にもあったのを思い出して止めました。
携帯メールは相変わらずリアルタイムには送受信が出来ないようでしたが、何人か元同僚の友人らからのメールが来ていました。
同じ敷地内勤務のM田さんからは、徒歩で帰路に付いている途中との事。
私の自宅近くにお住まいなのに、交通機関を捕まえられたかどうかで運不運も左右されたようです。
また、義父や義姉からもメールが来ていました。
歩きながら返信します。
私のドコモは通話はまるで駄目でしたが、遅れているとは言えメールでの連絡は付きます。
これは個人が孤立するかどうかで大違い。
ネットの有り難味を感じました。


鷺沼が停電していないなら、私の家も停電していないかも…と思っていたのですが、たまプラーザに近付くと暗くなって来ます。
こちらは駅近くの繁華街も停電で全滅状態。
灯りがあるのは駅構内と駅前の東急デパートのみ。
デパート入り口ホールは開放されていて、大勢の方々が休んでいました。
寒さをしのぐにも良いですしね。
あざみ野近くの駐車場に向かって歩を進めると、住宅街に入ります。
見上げると星空が綺麗。
しかし真っ暗な周囲の中での黒いコート姿なので、間違えて車に轢かれないよう、普段以上に気を付けます。
また、職場のある14階までコートを取りに行って良かったです。
この気温ではスーツだけでは厳しかった。
マフラー、コート、革手袋をしていたので、歩くと服内はぽかぽか。
気持ち汗もかいています。
しかし外気が低いので風邪の恐れもあります。
事実、翌日は風邪気味になってしまいました。


時刻は21時です。
駐車場に着くと、車がありませんでした。
どうやら妻が先に到着したようです。
念の為に保育園にも向かいました。
大通りの交差点は信号も消えて警官も不在。
車が走り抜けています。
しかし右折車線が渋滞かと言うとさにあらず、見ているとあうんの呼吸で譲り合っていました。
私も頃合を見て、片手を挙げて横断歩道を渡ります。


保育園のビルに到着すると、玄関ホールは自動ドアも開け放されています。
エレベータは停止中。
その横の非常階段ドアが開いていました。
幾ら通り慣れている階段とはいえ、踏み外す危険もあります。
携帯電話を懐中電灯代わりに使って上りました。
保育園のある2階また暗黒でしたが、声がかすかに聞こえて来ます。
向かうとドアが開け放たれていました。
「すみませーん」と私。
下駄箱の上から中央教室を覗くと、数人の先生方と数人子供達が、懐中電灯の灯りで照らされていました。
担任の先生もいらしたので妻子について尋ねると、今から1時間以上前に妻が迎えに来たとか。
保育園側も電話が通日、外部からの情報も遮断された状態だそうです。
礼を言い、少々軽くなった気持ちであざみ野駅に向かいました。



あざみ野駅はやはりビルのみ明るい状態。
しかしバスは運行していました。
幸いにも普段乗るバスもすぐ来たので乗車。
乗客は私も含めて3人。
やはり周囲は真っ暗です。
帰宅したらカセットコンロを出したりしておこうと覚悟していました。
ところが自宅近くのブロックに近付くと、急に家々に灯りが灯っています。
明るい気持ちでバス停を降りました。
家まで後20メートルというときに、玄関のドアが開き、妻が出て来ました。
何やら外に出していたようなのですが、名前を呼んで手を振ると向こうも気付いて応えてくれました。
娘も出て来ます。
「無事で良かったね」と言い合いました。


家の中は暖房で温か、幸いにもガス・水道も無事です。
日常インフラの有り難味は阪神大震災時のボランティアで痛感したのですが、今回はそれ以来。
幸運でした。


妻が地震に遭ったのは、顧客先からタクシーで戻る途中の汐留でした。
やけにでこぼこした舗装だなぁと思ったそうです。
彼女の事務所も汐留にあるのですが、そこには戻らず即帰宅を決断。
あざみ野までお願いしますと初老の運転手に言うと、如何にも嫌そうに「本当に戻るんですか?」と度々確認されました。
その度に「どうしても戻らなくてはならないのです」と答えます。
しかし国道幹線道路は大渋滞で車は進まず。
途中からは運転手の方も覚悟を決めたのかメーターを切り、細い裏道を通りまくり、渋滞にぶつかると即回避。
4時間掛かってあざみ野まで辿り着いたそうです。
無口でぶっきらぼうな運転手だったそうですが、こういう人で良かったです。
保育園の暗闇の中、懐中電灯で照らされていたのは黄色い防災頭巾を被った子供たち。
娘は普段通りに中々靴下や靴を履かず、玄関内でうねうねうだうだしていたそうです。
先生達にも感謝です。


遅い夕食を取っているときに、連絡の着かなかった私の実家から、妹が携帯に電話を掛けて来ました。
玉川学園近郊は停電になり、21時半頃電気が復旧したとの事。
父親は埼玉で退職する人に会いに行き不在、花瓶が落ち、食器棚から皿が1枚落ち、母妹トトの2人+1匹で暗い玄関でぶるぶる恐怖に震えていたそうです。
父からは向こうで泊まってくると連絡があり、これで私の近親者は無事が確認されました。


家族も無事で幸運でしたが、何より幸運だったのは、当日中に家族全員が帰宅出来た事です。
バスやタクシーの運転手や保母さん達のお陰ですね。
ツイッターで同僚・先輩・友人らを追うと、数人は徒歩で深夜過ぎに帰宅だったり、会社で1泊したりでした。
中には帰宅すると倒れた棚で室内のドアが塞がれてしまい、ドアを破るしかない状況の者もいました。
我が家の被害と言えば、地震でなくてもいつ崩落しておかしくない積み上げられた本が数冊くらい。
花瓶ですら奇跡的に何とも無かったのです。
高い家具は食器棚と本棚4つだけですが、どれも天井まで突っ張りでがっちり固定していたのが功を奏しました。


子供と離れて勤務していると、こういう災害時にまた数時間で戻れるとは限りません。
都市は災害に弱いと言いますが、本当にそう。
今回の実感です。
それでも先に書いたように、ツイッターやメールの威力は凄い。
自宅の電話回線が復旧後、PCが情報収集にどれだけ役に立ったか。
ネットコミュニケーションは道具として大いに有効でした。


災害で亡くなった方には、心からお悔やみ申し上げます。