サノヨーコ

早寝早起きの体質で、通常は5時前に目が覚めるのでそのまま起きてしまうという生活を何年も続けている。仕事のことで心配事があったりすると夜中の3時ころに目覚めてそのあとまんじりともできない時もある。いずれにせよ、起きる時間が徐々に繰り上がってきている。このままだとトシをとっていくとどんどん早起きが進んで70歳くらいで昼夜逆転するのじゃないか。
かっこいい佐野洋子は、死ぬことを恐れなかった。死ぬ気まんまんだった。でもそれって生きているのがつらかったってことじゃないの?スーパー吝嗇の女友達のエピソードが書かれている章で、その友達が佐野洋子にセーターをくれと言い、それについて、「どうせ死ぬんだからくれ、ということなのだ」と分析しているけれど、少し僻みがまじってるかな。だって、このケチ女は佐野洋子が「余命2年」と宣告されるずっと前からいろんなものを「くれ」と言ってきた人じゃないか。プラダのセーターにしたってその延長でしょ。僻みがでる、ってことは、楽しくないってことよ。佐野洋子には永遠に追いつけない私も、そこだけはちょっと一緒だなって皮肉な親近感があった。
素敵な佐野洋子は早寝早起きではなかったろうな。宵っ張りでだらだらテレビを観たり灰皿の横で長電話していたような、そんな姿を勝手に想像する。でも朝は結構早い時間に目が覚めていたんじゃない?布団から出るのが億劫で、静寂が布団の隙間から忍び込むにまかせて、葬式に来てくれそうな友人・知人のリストなどを脳内整理していたかもしれない。最晩年は、テレビの前にベッドを置いて一日過ごし「幸せだなぁ」とひとりごちていたそうだ。2回結婚して、2度離婚して、末期がんを宣告されて、「幸せだなぁ」って、シビれるよ、洋子さん。
谷川俊太郎には捨てられたのかと思ったら、逆だったみたいだね。あくまでもおのれに正直に生きた佐野洋子。「孤高」とは違う。森茉莉とは正反対のベクトル。見ている方向は違っても、死ぬときは誰でも一人。そこは共通。そして二人のヨーコはジュリーのファンだった。うふふ、私もジュリーのファンです。ヨーコじゃないけど。

ムラキミハルキアレルギー

昔は好きだった。家に、兄が買った風の歌を聴け他の文庫が何冊かあって、それではまった。エッセイも含めて出てたものはすべて読んでいったと覚えている。ノルウェーの森は興味本位で読んだけど、本当に心に響いたのは世界の終わりとハードボイルドワンダーランド。これはハードカバー版を自腹で買った。ねじまき鳥までは良かった気がする。スプートニクを読んだころから、それまでの作品との区別がつかなくなった。カフカを読んで、「もういいかな」と思った。1Q84は人に押し付けられて読んで、「もう、完全に終わったな」と自分の中のムラカミブームについてひとりごちた。
それからしばらくたって、本屋で、雑文集をみて、エッセイなら読めるかな、と思って買った。読んでみると、あの、翻訳調の文章スタイル、そこはかとなく漂う傲慢感、優越感、気取り、すべて鼻について最初の数ページから先に進めない。
アレルギーというよりは、こちらも年を重ねて、本物がわかるようになり、フェイクを受け付けなくなったのかな、という感じ。

ブログって誰が読んでるの?

私のブログは誰も読んでないな、100%自信あり。
だからここに何かいても共感もされなければ反感も持たれず、つまりは日記のようなもんだね。
例えば、アメリカの大統領選挙について、トランプが大統領に選ばれたらアメリカ国民は自分たちのバカさ加減を証明したようなもんだね、なーんて書いても、炎上しっこないってこと。
そのほか、どんなに過激な発言してもお咎め無しなのね。
でもきっとテ○に関すること書いたら、自動フィルタリングかなんかで、当局の目にとまり、そして、自分がテ○リストだなんて書いたらすぐにがさ入れなんかがあって、ワタシ逮捕されちゃうのだろうか。
私のように無名で、地位もなくて、前科もない人間のブログを、当局は自動フィルタで私のブログをひっかけてしまったら、過去にどんな発言をしたのか、なんかを、このブルグを隅から隅まで読むことで、私のテ○リスト適性検査なんかに利用するんですかね。
私としては、定期的読者ゼロから定期的読者1にでもなってくれるなら、書く張り合いとかは出てきますけどね、そりゃ。でも、私を逮捕するかどうかを検討するためにこのブログが読まれるとすると、おいおい、ちょっと待って、こんなつまんないブログに独り言の備忘録みたいに書きつけてる、そんなものでワタシという人間を決めつけないでー、と思います。人にもものにも多面性というものがあり、ブログに書いてあることなんて、一面にすぎないのだから。物事は多角的に見て判断しないとね。
文章書くのって面倒くさいとか難しいって思ってたけど、思考の流れのままに書くとすらすら行っちゃうね。ただ、推敲してないから、美文にはならないわな。今はなぜか少し眠気が襲ってきて、少しうたたねでもしたいなって思ってるから余計に支離滅裂。午前中のうたたねって、退廃的だなー。でも、さあ、寝ましょうっていうのはうたたねの定義から外れるような気がする。午前中だけど「昼寝」の方が正確だなぁ。
ああ、今日も独り言のブログ。誰も読んでないから誰にも釈明しなくてよくてとても楽ちんなのでした。

ファミリーストアさとう 唖然とする対応

ここのネットストアを利用しようとしたのですが、対応の悪さに辟易しました。まず、入荷のない商品をサイトに掲載。こちらが配送日の指定をしているのに、店の都合で変更を迫る。ここまでメールのやり取りです。そして、こちらが変更できない旨を伝えたると、その後全くの返信なし。状況確認のメールを2度送っても完全無視。手をこまねいたこちらが電話で状況を確認すると、取次のひとが「クレームだ」と言っているのが聞こえました。そして、なぜメールに返信がないのかを問うと、「メールが届いていない」という見え透いた嘘の一点張り。確認して後で連絡するからと一方的に電話をきり、その後、連絡なし。通信販売でもこのようなお粗末な扱いを受けたのは初めてです。非常識も甚だしい。非常に気分を害しました。

スコッティー カシミア の陰謀

スコッティーのカシミアといえば、箱入りティシューのプレミアム版。普通のティシューより柔らかく厚みもあり、肌あたりがやさしいティシューであることは、ある程度社会に認識されてるだろう。
私は、化粧落としのクレンジングクリームをふき取る際は、必ずこのカシミアを使ってきた。もう何年も。安いティシューだと繊維が粗いため、敏感な肌には厳しいのだ。安いティシュー(クリネックス)は、顔以外の用途に使うよう別に用意してある。とにかく、ここで言いたいのは、カシミアの感触は毎晩毎晩過去10年ほど触れてきたのでよくわかっているということ。
ところが、今回カシミアの箱を買い替えてから、なんとなく「違う」と感じ始めた。以前の柔らかさではないのだ。クリネックスとほとんど変わらない粗雑な感触。
自分の肌が荒れて、ティッシューに過敏に反応しているのかと思ったが、あまりにも以前と柔らかさが違うので、ずっと気になっていた。勤務先で使うティシューも、カシミアなのだが、こちらは、コンビニで買ったもの。このカシミアはまごうことなく高級感あふれる柔らかさ。そこで、このティシューを一枚抜き取り家に持って帰り、家のカシミアと比較してみた。感触が違う!見た目も、コンビニ版はみっちり目が詰まっているため、ミルクのように不透明な白色が均一に広がっているが、家カシミアはケーシー高峰の肌のように一面にあばたがあり、向こうが透けるほど薄い。並べて写真を撮ってみた。どちらがどちらと説明するまでもなく違いは明らかだ。



私の勘違いでなく、スーパーで売っているカシミアとコンビニで売っているカシミアは質が違う。一体何の陰謀なんだ!コンビニでは低下で売れるから、真正品、スーパーは値引きするから格下品ってこと?消費者をなめているのか。

さて、共通項は

工藤夕貴 真梨邑ケイ 松雪泰子 麻生祐未 萬田久子   

頬骨。。。かな?  
目は、麻生祐未を除いて皆それほど大きな丸い目じゃあないね。どちらかというと和風の切れ長目


工藤夕貴を除いて皆「大人顔」かも

系統は同じ