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Motoharuの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-12-14

大庭健著『はじめての分析哲学』(1990)

はじめての分析哲学

はじめての分析哲学

序章
第1章 哲学の変貌と分析哲学
 近代哲学の認識論敵的転回
 二〇世紀科学と論理実証主義
 論理実証主義の基本思想と、その自己修正
第2章 『経験論の二つのドグマ』―論理実証主義vsプラグマティズム
 『テスト可能性』以後の論理実証主義
 分析性の否定と<ホーリズム
 実在と惜定―『二つのドグマ』のプラグマティズムにおける反実在論
幕間にて
第3章 「科学の成功」・指示・真
 <指示>の非決定性と理論の共約不可能性
 科学の成功と、真・指示
結びに代えて 科学は如何なる意味で「成功」なのか

2017-12-01

廣瀬純著『シネマの大義−廣瀬純映画論集』(2017)

シネマの大義 廣瀬純映画論集

シネマの大義 廣瀬純映画論集

シネマの大義の下で撮られたフィルムだけが、全人類に関わる。個人的な思いつき、突飛なアイディア、逞しい想像力といったものが原因となって創造されたフィルム(…)、個人の大義の下で撮られたフィルムはその個人にしか関わりがない。「シネマの魂」が原因となって創造されたフィルムだけがすべての者に関わるのだ。

レヴィナスゴダール小津安二郎──切り返しショットの系譜学
ロメール映画のなかの女たち――出来事を創造する
クロード・シャブロル──『悪の華』と再生産
●ポー、エプシュタイン、青山――ユリイカ対ユリイカ
●カトリーヌ・ドゥヌーヴ――脱性化されたモンロー
エイゼンシュテイン、グレミヨン、ローシャ、ストローブ=ユイレ――地理映画(ジオ=シネマ)の地下水脈
●『ダゲレオタイプの女』問題、あるいは、黒沢映画の唯物論的転回
●ストローブ=ユイレ、フォード――そよ風の吹き抜けるサイエンス・フィクション
若松孝二『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』──道程に終わりはない
フーコーイーストウッド――無理な芝居の一撃
●クェンティン・タランティーノ――Shoot This Piece of Shit
●空族『サウダーヂ』――Outra vez…, mas!
●レオス・カラックス『ホーリー・モーターズ』──ルックス映画の極北
●マルコ・べロッキオ『ポケットの中の握り拳』――暴力階級と垂直落下
高倉健追悼――客分として生きる
●ロべール・ブレッソン――不確かさと二階層構造
鈴木清順追悼――運命、恥辱、人民
and more……

2017-11-26

田野大輔著『愛と欲望のナチズム』(2012)

愛と欲望のナチズム (講談社選書メチエ)

愛と欲望のナチズム (講談社選書メチエ)

産めよ殖やせよ。強きゲルマン人の子を大量に得るために性の解放を謳うナチズム。従来の定説を覆し、欲望の禁止ではなく、解放により大衆を支配しようとしたナチズムの「性の政治」の実態に、豊富な原資料から光を当てる。

第1章 市民道徳への反発
第2章 健全な性生活
 性的啓蒙の展開
 性生活の効用
第3章 男たちの慎み
 男性国家の悪疫
 結婚を超えて
第4章 美しく純粋な裸体
 裸体への意志
 ヌードの氾濫
 女性の魅力
第5章 欲望の動員
 新しい社交
 悪徳の奨励
 道徳の解体

6 モッセ『ナショナリズムとセクシュアリティ―市民道徳とナチズム』

2017-11-25

田口茂著『現象学という思考ー〈自明なもの〉の知へ』(2014)

日常においてはいつも素通りされている豊かな経験の世界がある―。“自明”であるがゆえに眼を向けられることのないこの経験の世界を現象学は精査し、われわれにとっての「現実」が成立する構造を明るみに出す。創始者フッサール以来続く哲学的営為の核心にあるものは何か。そしていまだ汲みつくせないその可能性とは。本書は粘り強い思索の手触りとともに、読者を生と世界を見つけなおす新たな思考へと誘う。

序章 「確かさ」から「自明なもの」へ
第1章 「確かである」とはどういうことか?―「あたりまえ」への問い
第2章 「物」―流れのなかで構造をつかむということ
第3章 本質―現象の横断的結びつき
第4章 類型―われわれを巻き込む「形」の力
第5章 自我―諸現象のゼロ変換
第6章 変様―自我は生きた現在に追いつけない
第7章 間主観性―振動する「間」の媒介
終章 回顧と梗概

162「「世界」および「人間」とは、この事実によって生起した出来事の「形」に付けられた名前にすぎないからである。この事実が生起している「場」は、さしあたり名前のない現象の流れである。これにフッサールは「絶対的意識」、「純粋意識」、「超越論的主観性」といったはなはだ誤解を生みやすい名前をつけた。名前にとらわれて実情を見失うことを避けようとして、新たな名前によって新たな誤認を生み出してしまったといってもよいだろう。実情に留意しているかぎりは(現象学者が言葉の内容によく気をつけて議論しているかぎりは)、こうした記号のような名前もそれほど危険ではないかもしれないが、やはりフッサールは「名前をつける」ことの怖さを十分に認識していなかったのではないか、と言わざるをえない(ハイデガーメルロ=ポンティは、こうした危険により敏感であった。彼らが工夫した擁護、たとえば「現存在」「世界内存在」「世界の肉」といった語は、そうした敏感さをよく示している)」

2017-11-14

岡原正幸他著『感情の社会学ーエモーション・コンシャスな時代』(1997)

今日、人々がごく自然なものととらえ、差し迫った関心を注ぎ続ける感情経験。その社会性に焦点をあて、新たな思考の枠組みを提唱、感情社会学の方法と可能性を紹介する。

第1章 感情社会学の成立と展開
第2章 感情社会学の課題
第3章 感情による社会的コントロール―感情という権力
第4章 感情自然主義の加速と変質―現代社会と感情
第5章 “感情する”秩序―当惑と相互行為秩序
第6章 感情表現と誤解の構造―感情の比較社会学に向けて