架空の杜

The journey is the reward.

設定を慈しむ作品・設定消化に必死な作品

ハヤテのごとく! 15 (少年サンデーコミックス)魔法先生ネギま!(22) (講談社コミックス)
消費されることを望む『ネギま!』と消費されることを拒む『ハヤテ』 - tanabeebanatの日記
両作品とも大好きなんですが、似て非なる作品なのだなぁとid:tanabeebanat様のエントリを読んで思いました。

最近のネギま!について

ネギま!は修学旅行編が終わった時点で作品が終了したとしても歴史に名を残す作品だった(あえて過去形)と思います。ここまで言い切るのはやり過ぎかもしれませんが、それ以降は設定を消化するために必死な作品というのが伝わってきて、楽しくないんです。それでも麻帆良祭編までは楽しく読めたのですが・・・、赤松健先生の秀才ぶり(天才ではない)が鼻につくのです。アニメ化してドラマ化して、今度は単行本にDVDをつけるという、作品への情熱よりいかにマーケティングするか?、そのために作品を「設定を消化するという手法を使って」に無理して続けるような感じがするのです。それに、最近はとっくに揶揄されている「強さのインフレ」の罠に陥ってしまって、なんだかなぁという感じです。

ハヤテのごとく!は最後まで辿り着かないと評価ができない作品

ハヤテの方は考え抜いた設定をじっくり味わって簡単には食べ尽くしてしまわないぞ!という畑先生の作品への愛情がヒシヒシと伝わってきます。それは読者にも伝わってきて「とにかくゴールに辿り着くまでは評価を保留にしたい作品」という感じです。(下手な言い回しですいません)

ゴールまで一直線か、蛇行するか

id:tanabeebanat様の作品理解と私の作品理解が違うのは今も同じです(tanabeebanat様は大御所になられてしまいましたが)即ち「成長することがゴールへの唯一の道なのか?」という点です。ネギま!は明らかに、主人公のネギ・スプリングフィールドの成長がゴールへの道です。しかし、何度も同じ意見を繰り返していますが、ハヤテのごとく!の作品のゴールへ進むための創作推進力は「三千院ナギの成長」ではないです。というか、ハヤテのごとく!の世界では基本的に「成長イコール=善」という図式は否定はしないまでも肯定もしていません。記号化したキャラクターの戯れが物語を編んでいるのは同じかもしれませんが、ネギま!は戯れによる摩擦熱でキャラクターが変幻していく一方、ハヤテのごとく!の世界ではあくまでも戯れに過ぎないのです。

成長物語と謎解き物語

キャラクターをカタログ化するという創作技法においては両作品は表層上は似ていますが、主人公の成長によって次第に謎が明かされていくネギま!と、様々な戯れを描くうちに次第に明らかになっていく作品の到達地点をゆっくり目指すハヤテとは、作品の主題が明らかに違います。

努力の向こうに終わりがあるのか、終わりなき日常を慈しむのか?

赤松健先生の主題は乱暴にいうと「努力して辿り着け!」です、「ラブひな」なんて更に露骨でした。同じく乱暴に畑先生の作品は「終わりなき日常を慈しめ!」だと私は俺は思います。表層的には同じような構造を持つ作品ですが、まさに昭和的価値観と平成的価値観の違いがそのまま表れているように思います。

このコマが象徴的ですね。

ネット共同幻想論を否定するのは欺瞞

いい加減、インターネットという共同幻想から目を醒ましたらどうですか - Thirのノート
共同幻想あってのインターネットだと俺は思う。共同幻想の中にアイデンティティを見いだしている人と、そうでない人の軋轢はまだ当分続くと思うし、むしろこれからが本番なのではないか?

共同幻想のコアにいる人たち

ウンザリするほど繰り返されている言説だけど、いわゆるロストゼネレーション、就職氷河期世代の人たちであろう。現実社会からの疎外感を感じている人がインターネットという共同幻想に自我を投影するのは、所詮ひとりぼっちでは生きていけない人間が行き着く先としてはごく自然だ。ネットでルサンチマンを蕩尽しているから、「何で彼らはデモの一つもおこさないのだろう?」と団塊の世代の論客を中心に疑問を持たれているように、リアル社会で何らかの行動をおこせないという側面はある、というよりそれこそが問題なのかもしれない。

心の壁・社会の壁

「いい加減、インターネットという共同幻想から目を醒ましたらどうですか」という言葉遣いに逆説的に、ネット共同幻想を嘲笑する社会の本流層への深い苛立ちを感じる。そもそも共同幻想埒外にいる人たちには、ネットの黎明期には彼らのことは視界に入っていなかったし、ネット共同幻想について言及されるようになった近年こそ、ネット社会がより厳然と存在感を示しつつあることの証左である。ネットにアイデンティティを委ねる人と、そうでない人のキャズムが問題なのだ。そこを誤魔化してはいけない。

ネット=ツールに過ぎない論は乱暴な議論

そういう言説はITバブルが崩壊するまではネットで儲けようとした魑魅魍魎たちのエクスキューズであったし、共同幻想にどっぷりとつかりながら「ツールに過ぎない」なんて嘯いている連中は、欺瞞に満ちていると思う。こういった言説に安易に同意することは視野の狭さと浅薄さを世間に晒しているようなもので著しく爽やかさに欠けている。

共同幻想に生きる人たちにとってネットは手段ではなく目的なのだ。

ネットにつなげば共感と感情の同期というネットの埒外では得られないものがあって、それに浸らないと自我を維持できない人たちというのは間違いなく存在する。そして自我を維持する手段が目的化して、そこから逃亡できない社会層がより顕わになったのが近年である。まぁ自分がそうであるというのが論拠なのだが(笑)

差別

事件が起こるたびにネット社会に原因を求める風潮が瀰漫していることを安易に許容してはならない。マスコミをコアとして、ネット社会に身を委ねざるを得ない人たちに対する慈愛が著しく欠けていることが問題だ、もっといえば明らかな差別である。ネットをツールとしかとらえない人達とネットの共同幻想に救いを求めざるを得ない人との軋轢は、これからが本番である。差別と戦うのは人権の基本だ。それにはまずネット社会にズブズブに浸っていながら、「俺はメタ的立場にいて埒外にいる」という欺瞞に満ちた言説に安易に同意署名することを慎むことから始めなくてはならない。