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「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

ついてゆけなくて当然です/社会のホメオスタシス

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大阪市民やネット一般人の絶大な支持を得て快進撃を続ける橋本大阪市長。名だたる論者が次々に撃破される様子に、眉をひそめる先生方は多い。一方で「変化」とか「革新」とかいう言葉に弱い私たちは、彼の巧みな話術にメロメロになっている。


橋下市長に「ついてゆけない」ひとたち。 所長サンの哲学的投資生活
http://d.hatena.ne.jp/syocyo/20120128/1327765979


テレビの前で議論しても残る 橋下市政への違和感 香山リカの「ほどほど論」のススメ‐ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/15901


メディアの演出力はすごい。「変化なんて絶対に嫌だ!」という既得権益論者VS「勝ち馬に乗ってウマいこと言っとけ!」という野心的論者――そういう対立構造が提示されている。
けれど、もしも私が「橋本派か反橋本派か」を問われたら困る。すげー困る。だって世の中は二項対立で説明できるほど単純ではないし、なにかにつけ「お前はどちらの軍勢なんだ!」と問い詰められるなんて息苦しい。すべての責任はShow your flagと声高に叫んだブッシュJr.にあると思うよ、わりとマジで。日本ではflagよりもfrogなのかもしれないけど。


反ハシズム」は「ゆでガエル」症候群だと感じた アゴラ 大西宏
http://agora-web.jp/archives/1427051.html


変化か、それとも現状維持か――。この議論にfragを投げ込むつもりで、私の所感を書いておこう。



       ◆



コウモリの羽はどのように進化したのか。
長きに渡り、この謎は進化論者と創造論者のあいだで議論の的になってきた。生物学者のあいだでも時代によっては見解が割れていた。ご存じのとおりコウモリの羽は哺乳類の前肢が発達したもの――つまり私たちの腕や手と同じ器官だ。長く伸びた指の骨のあいだに皮を張って、翼として利用している。
問題は、コウモリとその祖先との中間的な動物の化石が発見されていないことだ。
現在のコウモリの羽は、飛行に極めて適した形態をしている。が、これが中途半端な翼では何の役にも立たないし、中間的な種が発見されていない以上、コウモリの羽は神様の奇跡の賜物に違いない。これこそ創造論のゆるぎない証拠だ:というのが創造論者の典型的な主張だった。
一方、進化論者たちの見解は違う。中途半端な羽であっても無意味ではなかったと考えている。私たち哺乳類が誕生したのは三畳紀のころだが、その後、ジュラ紀白亜紀にかけて大型爬虫類の時代が続く。肉食恐竜から逃げる生活を続けていた私たちの共通祖先は、夜行性の小動物だったと考えられている。イヌともウマともクジラともつかない原始的な哺乳類からコウモリは進化した。
想像して欲しい。現在のネズミやリスのような小動物が、夜の森の樹上を歩き回っていたとする。そのなかでごく一部に、ほかの仲間よりも少しだけ指が長いやつらがいたとしよう。そいつらは枝をしっかりと握ることができるので、他の仲間よりも木から滑り落ちる確率は低くなり、より細い枝先のえさを捕ることもできるようになる。つまり他の仲間よりも生存率が高くなり、よりたくさんの子孫を残せるはずだ。
一世代だけなら大した変化は起こらない。「ちょっとだけ指を長くする遺伝子」を持った個体は、他の個体よりも数パーセントだけ多く子孫を残すだけだ。しかし、これが十世代、百世代と繰り返されれば違いは顕著になる。この遺伝子は集団内に広まり、この動物の群れは指の長いやつらばかりになるだろう。あくまでも指が“ちょっとだけ”長いだけだが。
そして“ちょっとだけ”指が長いこの動物の群れに、指のあいだの皮膚が他の仲間よりも少しだけ広いやつらがいたとする。わずかな違いだけれど、たとえば万が一、木の枝から滑り落ちたときに指を広げることで空気抵抗を増やし、地面に衝突したときのダメージを軽減できるかもしれない。指のあいだの膜がちょっとだけ大きいかどうか――わずかな違いだ。が、生存率にもわずかに、しかし確実に影響を与える。そして他の仲間よりも指の膜が大きい個体は、よりたくさんの子孫を残せるはずだ。
このプロセスが何万年も繰り返されると、この動物の指は次第に長くなり、また指のあいだの皮膜も徐々に大きくなっていく。百万年後には木々のあいだを滑空できるようになり、一千万年後には羽ばたいてより遠くまで移動する――飛行が可能になる。
このように自然選択には正のフィードバックが働く。ちょっとだけ有利な形質が世代を経るごとに強調され、より洗練されたものになっていく。コウモリの羽のような合目的な器官が発達したことこそ、自然選択による進化のゆるぎない証拠だ。
こうした「ちょっとずつ」の進化は、現代の進化論者の間では常識になっている。が、ダーウィンの進化論が生物学者により否定され、過去の理論だとされた時代がある。それが1900年のメンデルの遺伝の法則の発見と「突然変異説」の提唱だ。
変化がつねに漸進的だとは限らない。たとえばエンドウ豆の花の色や種子の形は、突然変異一つで劇的に変化する。こうした突然変異によって獲得した形態が子孫に伝わることで、生物の進化をドライブしてきた:これが突然変異説だ。
ただしこの突然変異説が提唱されたのは1901年のことで、当時は遺伝子を記録している媒体がDNAだということすら分かっていなかった。(高校生物を勉強しなかった人に:遺伝子とDNAの関係は、音楽とカセットテープの関係に近い。磁気テープに記録された情報のことを音楽と呼ぶように、DNAという鎖状の分子に記録された情報のことを遺伝子と呼ぶ)オズワイルド・アベリーの研究が1944年、ハーシー&チェイスの研究が1952年。そしてDNAの二重らせん構造が解明されるのは1953年だ。それ以降の分子生物学は、花の色などの劇的な突然変異も、DNAのレベルでは塩基配列のごく一部が変異しただけだと明かしていった。カセットテープの情報に少しでも傷があれば激しく音飛びするように、遺伝子の種類によってはちょっとした変異が顕著な表現型の違いとなってあらわれる。花の色の突然変異は劇的だが、分子レベルではやはり漸進的な変化なのだ。コウモリの羽のように複雑で合目的な器官は、たった一回の突然変異では作れない。



そもそも生物は、可能な限り変化を嫌うように出来ている。当たり前だ。たとえばDNAが頻繁に組み変わるようでは生存に必要な遺伝子が簡単に壊れてしまい、生きていけなくなる。国際線航空機に乗る程度の放射線被曝ならほとんど無害なのはそのためだ。生物の細胞にはDNAの損傷を補修し、できるかぎり突然変異を防ぐ仕組みがある。(といっても補修能力には限界があり、しかも個人差まであるので話がややこしくなる。遺伝子が“お守り”として私たちを守ってくれるなんて、ひどい妄言だ)
地球上に生命が現れたのは45億年前だ。が、生命の歴史の半分以上は原核細胞生物の時代である。原核細胞生物とは生物の中でもとくに原始的なものの一つで、ぶっちゃけた言い方をすれば油の泡のなかに有機物が詰まっていているだけの生き物だ。代表格は大腸菌
そして今から22億年ほど前に、地球生命は劇的な進化を遂げる。それは、たとえるならトランジスタ・ラジオがノイマン式コンピューターに進歩したぐらいの目覚ましい変化だった。地球生命の歴史のなかでも、いちばんの大事件だろう。
生物は大腸菌レベルから、真核細胞生物――発芽酵母やゾウリムシレベルに進化した。
ここでズコーってなったあなた! あなたはなんもわかっちゃいない。同じ単細胞生物でも彼らは似て非なるものだ。原核細胞生物が有機物を詰めただけの「細胞膜の袋」だったのに対し、真核細胞生物は細胞内に複雑な小器官を発達させ、繊毛を使って泳ぎまわり、えさを探して捕食し、果ては「性別」までも発明したのだ(ゾウリムシでは遺伝子を交換できる相手がある程度決まっており、原始的な「性」ではないかと言われている)。これを生物史上に残る大事件といわずしてなんと言えばいいだろう。少なくとも私はビールを飲むたびに酵母のチカラに心奪われ、誕生から23億年もかけてようやくたどり着いた真核細胞生物への進化に思いを馳せる。ビール美味しいです!
多細胞生物の誕生には、そこからまた長い時間がかかる。生物の多細胞化をコンピューターの進歩になぞらえれば、さながらインターネットの発明のようなものだと言えるだろう。今から6億年前のエディアカラ生物群が最古のものと言われており、5億年前のバージェス動物群のころには現在の動物の大まかな分類群(動物群)がすでに誕生していた。逆にいえば、いまの生き物の基礎的なデザインは5億年前から変わっていない。変化は常に漸次的であり、飛び石のような進歩はまずありえない。
その一方で、地球の環境は劇的な変化を繰り返してきた。酸素濃度一つをとっても、大気中の酸素がほとんど無い時代があれば、現在の1.5倍以上も濃い時代があった。北極・南極から氷が消える温暖な時代もあれば、全球凍結して惑星表面から液体の水がなくなる時代もあった。漸進的な進化しかできない生命にとって、環境の激変は拷問以外の何者でもなかった。そうして大量絶滅が何度も起きた。
地球の環境に振り回されるのではなく、自ら環境を作り出す生物たちがいる。
たとえば古くはシアノバクテリアストロマトライト、時代は下ってサンゴ虫などだ。現代の生物なら、植物では落葉樹林や竹林、動物ではビーバーやアリたちが代表格だろう。生活しやすい環境を自力で作り出すことで、多少の環境の変化には翻弄されないように――安定して生存し続けられるように進化した。
ビーバーやアリが巣作りをするのは、彼らの遺伝子がそう命じるからだ。彼らは遺伝的に巣を作らずにはいられない。そして彼らの巣作り行動が極めて複雑でとてつもなく合目的なのは、行動そのものが自然選択を受けてきた証拠だ。行動の背後にある動機――ヒトでたとえるのなら感情や本能といったもの――は、遺伝子が神経細胞の接続方法を支配することで生み出されている。彼らの巣は遺伝子の肉体の外にまで延長された表現型なのだ。
そしてヒトも例外ではない。私たちの心に「愛」があるのは、ヒトが社会的な動物として進化してきた証拠だ。私たちが「嫉妬」を覚えるのは、ヒトが一夫一妻制の動物として進化してきた証拠だ。私たちの脳内の神経細胞の接続方法も、基礎設計は遺伝子に支配されている。複雑な思考や理性までは支配できなくても、感情のもっとも根底の部分は遺伝子によって作られている。そしてこの社会が――たとえば株式市場や選挙結果が人々の「感情」に左右されることは、多くの人が認めるところだろう。すなわち私たちが目にしている現在の社会も、私たちの遺伝子の延長された表現型に他ならない。だからこそ、この社会は「変化を嫌う」という生命の大原則に従うのだ、基本的には。
急激な変化についてゆけないヒトがいて当然だし、圧倒的多数だということを私たちは理解すべきだ。なぜならそれがhuman natureだからだ。では、ついてゆけない個体は困窮してかまわない・死んでかまわないという価値観を認めるかどうか:ここから先は遺伝子の支配から外れており、理性と知性の問題になる。



       ◆



声高に「革新」や「改革」という言葉を叫ぶヒトは、漸進的な変化を経ずにいきなりコウモリの羽を作ろうと言っているようなものだ。膨大な数のついてゆけないヒトに阻まれて、言ったとおりの理想はまず実現できない。一夜にして何もかもを作り変えるなんて、そもそも不可能なのだ。人間という生き物の一般原則に反するからである。強いリーダーにできるのは破壊だけで、その後の創造的な行為は私たち一人ひとりの手にゆだねられている。
願わくば、ついてゆけないヒトたちの命が脅かされることのないように願いたい。私は以前から訴えているが、これからの時代、競わせるべきなのは文化や思想、価値観であって個体ではない。考え方の違いが原因で死者が出るなんて、それマジ20世紀だよね。21世紀が始まってだいぶ経つのだし、そろそろ成長しましょうよ。
さりとて、動き始めた時代の流れは止めようがない。橋本派と反橋本派の両陣営にはこれからも激論を戦わせて欲しい。すり合わせと論破とを繰り返しながら、大阪から始まった「変化の波」を洗練された合目的なものへと進化させてほしい。考え方や価値観を、きちんと「議論」という生存競争にかけるのが肝要だ。東京人の私としては、この波が地元に届くころにはいくぶんマイルドで間口の広いモノになっていることを期待しながら、京都の地から傍観している。



コウモリの羽は、一夜にして進化したものではない。変化はいつだって歯がゆいほどゆっくりで、環境を激変させれば絶滅につながる。しかし木から飛び降りる勇敢な“最初の一匹”がいなければ、いつまでも空は飛べないのだ。




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