福田恒存『人間・この劇的なるもの』

 その昔、いつでも手にはいると思っているうちに、いつのまにか手に入らなくなり、あれどうしようと思っていたら、いつのまにか再版されていた。そのブツをたまたま見つけたので購入。ハムレットが取り上げられているというのもうまいタイミング。読んでみたら、いや面白かった。
 『ハムレット』のところで、これは悲劇が悲劇たりえなくなった世界で起こっている「悲劇」じゃないかと書いたわけだけれど、福田恒存は、ギリシア悲劇を次のように説明したうえで、その後に来るのがストイシズムであること、そして、ハムレットがストイシズムの延長線上にあることを指摘している。

ギリシア悲劇において主人公の受苦を壮大に見せるもには、人間の自由ではなく、宿命の必然性である。その前提には、宿命にたいする、あるいは神にたいする、人間の信頼感があった。宿命は人間が選びとるものではなく、神々の側から人間に与えるものである。が、もし、個人がそれを選びとらねばならぬものなら、その最後のしあげも、個人が自分の出てやってのけねばならぬということになる(82頁)。

 そこに生まれおちるのがストアであり、ストア派はいわば世界と和解できない人たちなのである

ストイックたちは人間の平等を説き、ギリシア人と野蛮人、主人と奴隷、その他いっさいの階級的差別を否定した。が、その心底にあるものは、現実のすべてを自己にとって不利益なものと見なし、自分の手で守らねばならぬと観じた孤独者の不信である。彼らには味方はひとりもいない。ギリシア固有の神々はもちろん、歴史も支配階級も、いや、仲間すらあてにはならぬ。自分が自分を認める以外、どこにも生きるよすがは求められぬのだ。シェイクスピア劇の主人公たちが置かれた環境がまさにそれであり、これこそギリシア劇ともフランス劇とも異なるものである(83頁)。

 そして、その延長に位置するとされるシェイクスピア劇の登場人物たちに、福田はストイシズムあるいは個人主義の限界を見る。福田によれば、ハムレットは、王位を母によって妨げられ、宿命を失った人間として、「それをどこか見つけださなければならぬ人間として登場する」(52頁)。だから、いわばハムレットは父の亡霊を見たのではなく、見たかったのだと。だが、「自分で編み出した必然性や、自分で造り上げた宿命など、自分の死後にまで通用するはずのものではない」(86頁)。最後に「ハムレットはホレイショーに、他人の目には見えぬ自己の心事を語り告げるように頼んでいる」(71頁)が、その背景として「行為以外に自己を形づくり決定するものはない。外面的な行為のほかに内的動機を信じないというのは、おそらくエリザベス朝時代における一般イギリス人の、かなり普遍的な生活態度であったように思われる」。してみれば、それは犬死にではなかったか。
 言ってみれば、自由とは世界から疎外された者のルサンチマンにすぎないというのである。

 人が自由という観念を思いつくのは、安定した勝利感のうちにおいてではない。個性というものを、他者よりすぐれた長所と考えるのは、いわば近代の錯覚である。ストイックやエピキュリアンにまでさかのぼらずとも、つねに人は、自分がなにものかに欠けており、全体から除け者にされているという自覚によって、はじめて自由や個性に想到したのであるが、このなにものかの欠如感が、ただちに安易に転化され、弱者の目には最高の美徳であるかのごとくに映じはじめるのだ(95頁)。

私たちは過去にたいする不信から未来への信頼を生むことはできない。身近な個人にたいする不信から社会にたいする信頼を生むことはできない。それにもかかわらず、現代の自由思想は、そういうむだな努力をしてはいないだろうか。その未来社会にたいする期待は、過去の伝統や秩序や倫理観の否定と、身近な特定の他人にたいする不信感とから出発したものではないだろうか?今日の私たちの不信は、他人に裏切られ、自分だけが貧乏くじを引くことの恐ろしさから出てはいはしないか。つまりは、他人に利用されることを嫌い、他人を利用しようとする心がまえにすぎないではないか。ふたたび、自由はそのようなものなのだ(104頁)。

 しかし、一方で福田はそのシェークスピアに全体に遡る契機を見出そうとする。シェークスピア劇の主人公たちの姿は、個人主義の限界は示しても、個人主義文学の限界を示すものではないと。福田はそれを「悲劇的アイロニー」と呼ぶ。「劇の終末において、私たちは事件の経緯を明らかにされるだけでなく、無智なるものが無智のまま全智にいだきとられるのを、眼の当たりに見るのである。個人が個人であることを主張したまま、全体に合一するのを、そして自由が自由であるままに、掟によって罰せられるのを、私たちは感じとる」(120頁)。つまり、シェイクスピア劇もギリシア劇も「劇としての本質は変わらない。一度全体から離脱した個体は、最後に全体に復帰しなければならないのだ」(114頁)。
 いわば、劇的なるものとは全体性を回復するための儀礼なわけですな。山口昌男の先触れみたいな話。「生はかならず死によってのみ正当化される。個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そして、それが人間の生き方なのである。人間はつねにそういうふうに生きてきたし、今後もそういうふうに生きつづけるであろう」(160頁)。
 こうして、途中で「近代の日本においては、その形式が消滅したばかりでなく、私たちは、あらゆる場所に外部の現実とのいわを見いださねばならなくなったのである」(27頁)なんて言われていた話が最後には丸く収められてしまう。でも、今現在において、世界からはじかれた人間の狂気や惨めな死を横目に、全体性の回復を感じることなんてできるのだろうか?そこにはむしろ終末感ばかりが漂っているように思える。ボクらにはもうとっくの昔に福田のこの結末が受け入れられなくなってしまっている。そんな全体なんて信じようもないところに来ているのではないだろうか?

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)