正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

静岡駅  (第137回)

 乃木希典中将が、新たに編成される第三軍の司令官に任命されたのは、日露開戦三か月後の1905年5月のことだから、やはり戦争の成り行きを見定めての新編成だったはずだ。後述するが、奥康鞏大将の第二軍から一部の隊を引き抜いていることからしても、当初計画に沿ったものではなかったのだろう。

 そうなった原因の一つは、海軍の旅順口における苦戦があったのは間違いない。2月の開戦早々から、この港湾に引きこもったままのウラジオ艦隊を攻め始めているのだが、なかなかうまくいかない。3月には広瀬が戦死し、同じころマカロフが着任している。


 海軍としては陸からも旅順を攻めてもらわないと困る。陸軍としても、ウラジオの連中がウロウロしていては、海上輸送が不安なままだ。かくて、満洲の増員予定である第四軍に先立ち、第三軍の編成が決まった(と思います)。

 司馬遼太郎は「殉死」において、乃木さんが人選された理由をあれこれ論じているのだが(ということは決定的な人事書類は、残っていないのだろう)、大きく分けて、四つ挙げているように思う。


 まず、(1)薩長藩閥政治の産物。次に、(2)乃木さんが最年長クラスの現役中将で、確たる役職についていないこと。個人的要因として、(3)乃木さんが明治帝のお気に入りであること。最後に軍歴によれば、(4)乃木なら旅順を知っている。

 単純事実関係に誤りはないと思うので、要はこれらが司令官人事の判断材料として働いたかどうか。(1)と(2)は、今も永田町や霞が関で機能してしまっている派閥と年功序列のメカニズム。

 決定的要因になったかどうかは私には分かりようが無いが、人事は周囲が納得するかどうかが大きく、善かれ悪しかれ(1)および(2)は、首脳陣の念頭にあったはずだ。


 (3)は総帥権をお持ちの明治天皇を説得するにあたり、便利です。少なくとも、この逆だったら有り得なかった任命だろう。そして、これから問題になるのが(4)ということになる。乃木さんが旅順を知っているというのは、ちょうど十年前の日清戦争で、この旅順のトリデを一日で落した古事による。

 しかも、もう一人、同じく日清戦争で旅順を経験し、しかも砲術に詳しいという評価のある伊地知幸介少将が、第三軍の参謀長になった。この両名が司馬さんの手厳しい非難を受けることになり、乃木信者を怒らすに至る。


 確かに、守りの堅い要塞相手に、せっかく勝って、しかも後世、ここまで悪評を被った例というのも古今東西、少ないのではないか。しかし司馬さんの感情には、膨大な数の死傷者が何かを訴えているのだ。厳しく言えば、一将功なりて万骨枯るの典型例ではないかということだ。

 世間の評判が結果的に「功」であり、やがて世界的な英雄になり、殉死により神様になった。傍から見れば位人臣を極めたようにもみえるが、この先、どんなエピソードに触れても、乃木さんご本人が幸福であったとは到底思えない。まして、驕りとか権力欲とは無縁のお方である。


 以下、「殉死」による。5月27日、一年後に日本海海戦があり海軍記念日となった日に、乃木さん一行は、東京駅から呉に向かい、その足で現地へ渡るため、直行の汽車で移動した。静岡駅で、奥の第二軍が金州城を落し、南山を占領したという吉報が届き、同行の伊地知参謀長を狂喜させた。幸先、良し。

 静岡市は私の生まれ故郷で、ちょうどこのころ、私の父方の祖父母はいずれも、十に満たない子供で静岡にいた。余談ながら、三四十年前の東京発の夜行列車は、静岡駅でしばし停車し、好い声の弁当売りが乗客に駅弁を売るため、「弁当、弁当」とホームを流していたものだよ。


 汽車が広島に着いた日、南山の戦いの詳報が届いていた。例の、死者の数は「ゼロ」が間違って一つ多いのではないかと大本営が信じなかったという大損害だった。更に翌日、乃木さんのもとに、長男の乃木勝典小隊長が、金州戦で銃撃され戦死したという訃報が届いた。

 こういうとき、乃木さんという人は、過度なほどの自制を自らに課す。日記には、「勝典ノ事、電報アリ。多言セズ。」と書いたというから、同行者にも黙した。士気を考えてのことか。妻お静には、残る二つの棺(自分と次男)が揃うまで葬儀を出すなと電報を打ち、弔電をくれた寺内陸相には「大満足」と返信した。

 この人生は疲れる。後に乃木さんは、金州城と爾霊山において後世に伝わる漢詩を創り、前者は「殉死」に、後者は「坂の上の雲」に収められているが、この両戦地は、彼の二人の息子の戦死地でもある。「君死にたまふことなかれ」とは正反対の作風だが、乃木さんは全ての兵に対してしか、うたえない人だった。しかも、なかなか棺はそろわない。




(おわり)


立木枯る  (2017年7月24日撮影)








































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