続々2000人の根拠

ウィキペディアの「貝原俊民」の項目(貝原俊民 - Wikipedia)がずいぶん詳しくなっている。これは便利だ。というか、こういう細かいことは必要だ。
以下ウィキペディアの記述に依拠しながら兵庫県の動きを検討して見る。

午前8時10分に陸自第3師団所属第3特科連隊から兵庫県消防交通安全課課長補佐・野口一行の元へ災害派遣出動の確認の電話が入る。

→つまり8時10分には陸自第3特科連隊は出動できる状態であったと考えられる。自衛隊もボーッとしていたわけではないことも、当然ながらわかる。すでに災害出動の経験も豊富で、それだけに迅速な動きを示せたのであろう。

午前9時、小久保・北淡町長が県民局を通じて自衛隊の出動を要請、又、同時刻に松下勉・伊丹市長が陸自中部方面総監部に救援を要請。

陸自中部方面総監部にも出動要請は届いていた。つまりこの段階で自衛隊は出動できる状態にあり、ゴーサインも出されていたわけだ。

午前9時5分、国土庁防災局が兵庫県総務部に自衛隊派遣の要請を行うよう通達。

→これで国も動いていることがわかる。手続き上兵庫県からの要請が必要なのである。この点は役所仕事なので、ある意味完全を帰しているのであろうが、既に手続き上も十分に整っている。

午前9時30分、神戸市が県に自衛隊出動を要請。

神戸市も動いている以上、神戸市内への災害派遣も手続き上も固まっていた、と見なすべきである。

午前10時、兵庫県消防交通安全課課長補佐・野口一行が陸自第3特科連隊からの「この連絡を以って派遣要請が有ったと認識して良いか」と言う電話を受け「宜しくお願いします」と回答。これが兵庫県から陸上自衛隊への正式な災害派遣出動要請となる。

要するにこれで最後の形となったわけである。「失われた」時間は1時間50分だった、ということになる。
問題は兵庫県からの要請がなければ全く動けない、ということだったのか、ということと、実際に陸自の展開がいつから行われたのか、ということ、そして陸自がどのように動いたのか、ということである。さらには自衛隊に期待された役割は何だったのか、ということについて私は知るところがないので、これについては何ともいいようがない。例えば消防や救急は当然動いていた。道路の寸断も存在したが、車もやじ馬が入ってきて渋滞を引き起こしているという報道もあり、被災地への興味本位の動きは避けるように、という話が何度もテレビで流されていたのを覚えている。
これは当然道路管理部署が土木機械によってがれきなどの除去を行っていたからであり、交通網の復活は自衛隊の専売特許というわけではない。逆にウィキペディアの「災害派遣」の項目(災害派遣 - Wikipedia)によれば以下の通りである。

主要なものは航空機、土木機械、舟艇、ツルハシやスコップであるが、火山近傍への進出のため装甲車や戦車を使用したこともある。護衛艦は海難救助や輸送、大規模災害時の災害派遣部隊の基地代わりとして有効に活用される。阪神・淡路大震災時にこれらの装備では十分な活動が行なえず、緊急調達や自衛隊員個人が保有する道具により対応せざる得なかったことから、初めて災害派遣専用の「人命救助セット」が導入され、全国の駐屯地等に配備されている。

つまり阪神大震災の段階では「人命救助」関係についてはまだ弱かったということがうかがえる。陸自自身おそらく当時「人命救助」が中心とは考えていなかったであろう。陸自がその存在感を示しえたのは、例えば寸断されたライフラインの代替を提供することであったはずだ。あくまでもテレビ報道に依拠した印象でしかないのだが、テレビ報道では連日被災地で被災者に風呂を初めとしたライフラインを提供する自衛隊の姿が映し出されていた。「災害派遣」の項目にも次のようにある。

自衛隊災害派遣において発揮する最大の特性は他組織の支援が無くても任務を遂行できる自己完結性である。このため警察や消防などと異なり初動準備には時間がかかるため被災から一定時間経過後の物資輸送や生活支援、応急復旧工事などにより力を発揮すると考えられている。

つまり自衛隊が被災地において何が一番強いか、と言えば後方支援がなくても動ける装備にあるのだ。軍隊とは基本的にそういうものであり、イラク派遣もその論理に基づいて行われたはずだ。従って即時に動くことを期待したものではなかったはずである。基本的に「失われた」時間を問題にする言説は自衛隊の装備や役割についての根本的な無知があるのではないだろうか。自衛隊の必要性を説くのであれば、自衛隊の装備の特質についても最低限押さえなければ意味のある議論にはならないだろう。
兵庫県の要請が最終的に必要だった、という点については同じく「災害派遣」の項目が参考になる。

阪神・淡路大震災までの一時期、文民統制の原則から、都道府県知事等の要請がなければ絶対に災害派遣行動は出来ないという考え方が主流となっており(独断専行容認はクーデターを認める事につながるとする意見あり)、緊急を要する場合は訓練名目での派遣や近傍派遣の名目で行なわれたこともあったが、阪神・淡路大震災での反省点を踏まえ、現在では「自主派遣」に関する基準が明確化されており、法制定の趣旨に沿った活動が行なわれている。

つまり文民統制の観点から都道府県知事「等」の要請が必要だった、ということである。結論としては兵庫県からの要請は必要であった、ということになる。確かにそういう面では慎重にならざるを得ない点もあったし、一方で慎重になることの弊害も阪神大震災で明らかになったために、「自主派遣」に関する基準を明確化し、柔軟に運用できるようになった、ということであろう。それは阪神大震災の教訓が活かされた、ということだ。一方貝原俊民氏がなぜ災害派遣要請を遅らせたのか、についてははっきり断定できる原因が私には思いつかない。もちろん当時の貝原県政が共産党を除くオール与党であり、日本社会党への配慮もあったのかも知れないが、同時に自民党の支持も受けていたはずだ。社会党への配慮で消極的だった、という可能性は否定できないだろう。ともあれ、災害派遣要請が遅れた、という事実は覆い得ようもないだろう。私としては貝原氏を擁護する義理は全くない、どころか、評価するか否定するかと言われれば、神戸空港など様々な点から「否定」となる。だから私には貝原氏や井戸氏を擁護する義理はこれっぽちもなく、批判すべきは批判をする。
纏めて見ると、現時点での私の見解は貝原氏のミスはまさに「自衛隊への災害派遣要請が遅れた」(ウィキペディア貝原俊民」項目)ことにつきる。ただその影響に関しては、私は自衛隊の装備や期待される役割から鑑みるに極めて限定的なものであったように思えるのだ。そもそも散見する「自衛隊が遅れたために多くの人命が損なわれた」という言説は、当時最前線で働いていた消防や救急に対する冒涜であり、自衛隊の役割や特質を知らずに過大な義務を負わせている、という点で自衛隊そのものに対しても大変失礼な話であると思うのだ。消防や救急、道路管理部局、自衛隊阪神大震災で果たした多大な貢献を、当時の状況をろくに知らない人々が気軽に論評し、あまつさえ否定するような言説は、当時大震災の復旧に当たった人々への愚弄であり、冒涜である。貝原氏の判断を批判するのは有り得べき議論であるし、これからの災害対応を考えるためにはむしろ必要だろう。問題は批判の仕方にあるのだ。
追記
阪神大震災に関するまとめについてはここが非常に参考になる、と感じた。参考までに。(http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/5761/hannkatu.html