『涼宮ハルヒの溜息』

涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

読了。
『憂鬱』より冗長な感は否めませんでした。特に「起」「承」の200Pくらいまで非常にタルかったです(笑)。ま、前作は前半部分で各キャラの設定説明があったからでしょうけど。
あ、えっとここからはちょっとネタバレになるので、ネタバレ嫌悪な人は以降は読まない方が賢明かと。


『憂鬱』も『溜息』も、基本的に経験論的な世界観で構築されてます。つまり、事物の存在そのものではなく、経験によってそれを認識する主体があるから事物が存在するというものです。
例えば、『溜息』では猫が人語を話すということが経験によって「現実」として認識されると、世界がその存在を許容するために変化というか、初めからそうであった世界へと変質する。つまり、経験が先行して、猫がしゃべるという事実を(客観的に言えば)正当化するわけです。
『溜息』の基本コンセプトは、映画(フィクション)とキョンのいる世界(現実)との交錯、つまり虚実皮膜。それゆえ『憂鬱』とは違ってハルヒの妄想(?)が現実世界を変容させるというものでしたので、余計に経験論的に感じましたね。
また、ハルヒの願望が世界を変化させるというのは相対主義的な印象を受けます。
望むように世界を改変することができるというのは、古泉一樹に言わせれば「神」の視座であって、現実に存在する絶対的なものを相対化することができるからです。


や、他にももっと色々言いたいことあった気がしたんですけど、電車の中で読んでて忘れちまいました(笑)。
ま、『退屈』もこっそり購入済みですので、読み終わったときに思い出したらまた書きます。

涼宮ハルヒの憂鬱』祭り

冷静に書いてるつもりなんですけど、自分の中では今、かなり確かに猛烈に熱い『涼宮ハルヒ』祭りが展開されております(笑)。端的に言えば、完全にハルヒに萌えております(爆
別に性癖を吐露する場じゃないので具体的に何に萌えているか暴露しませんが、一応自分の名誉のために言っておきますと、ハルヒツンデレだからとか、私がDQNキャラスキーだからとかいう理由で萌えているのではないのですよ念のため(←誰に言い訳しているの?


さてさて、↓にあるように
http://www12.plala.or.jp/bandage-heart/haruhi/map.htm
http://www.slayers.ne.jp/~luke/haruhi/off.html
やっぱり現実に舞台があるんですね。
このハルヒ熱が夏まで続いたら、巡礼に行ってしまいそうな勢いです(笑)。