個である人間の本質は考える葦である

標題はギャグが滑った。

まあ、家を買って、仕事変えることはできませんだから人生で、自分の満足度と家を簡単に秤にかけられないのが一般人です。

と書いて、

仕事に必要なことはすべて映画で学べる

仕事に必要なことはすべて映画で学べる

人生は優先順位をつけないと、流されて終わっちゃうよ、が頭に浮かんだというか、

昨今、生産性の問題って、優先順位をちゃんとつけれないせいのようなと大きく膨らまし、

何のために生きるのか、全てを得ることはできないくて苦しむけど、バッサリ捨てもしないとである。

利のために何かをするには利が理由となり、無為なことをするには私の中に何か理由、拘りがないとだめで、それは私自身が価値を認めるからだ。

利のために何かをするには利が理由となるが、利は誰にとっても理解できるものならば、私自身の価値観は置き去りにされて、拘りはするものの、正体は無(見栄)のためにどこまで人生を振るか。

人の賞賛は欲しいものだけど、賞賛のためにどこまで人生を振るのか。

(うーん、この論理は気に入らない。組み直したいがそれはさておき)

何で自分で決めたことじゃないと自分の人生を生きたことにならないか考えていて、ふと、1か月以上、書きかけで放置した文を見た

答えの出ることではないが、なんとなく書きたかった。

為末大って炎上芸人、芯は有りそうなんだけどどーなんでしょ、興味もなし、の位置づけだったけど、本物かなっと。

高知新聞2017年1月16日掲載

3年前に楽しんだ走ろうと宣言した青学大はストイックな箱根駅伝の空気の中で異質のチームだったが、いつの間にか他校の追随を許さないほどの強豪チームになった。

スポーツの正解では昔からコーチ管理型か、それとも選手主導型のどちらが良いコーチングかという議論がある。(略)

管理型では問題解決はトップが行い、実行を選手が担うという側面があるが、そうすると問題が起きてもそれを解決するのは自分だと選手たちは思わない。主体性を失った選手をよく見ていると特徴がある。

問題が起きた瞬間に必ず監督の顔を見る。自分は主役ではなく、ひとつの駒だと思っているからだ。(略)

私たちはどんな人間観を持つべきなのか。人間とは管理し、報酬と懲罰を与えなければ動かないのか。それとも自由を与えられ、権限を持てば高いパフォーマンスを発揮するのか。

管理が緩めば、確かに自分で自分をコントロールできない人間のパフォーマンスは落ちてしまうだろう。

また自由になれば、本人が自分で考え意思決定をし、その結果責任をある程度引き受けなければならないため、考えられない人間や主体性を持てない人間は取り残されてしまうだろう。

それでも私は人間の可能性を信じ、もっと寛容な組織と寛容な社会を作るべきだと思う。寛容な空気の中でなければ人間は自主性を発揮しない。

管理型は問題が起きにくい、きれいに整った世界を作るのには向いているが、完璧が故に個人が何かを思いつき生み出し、変化していく余地を奪ってしまう。

寛容な社会は余白が大きいが、そこに個人が何かを生み出せる余地がある。(略)

主体性=考えることになるかにゃ〜

「主体」=「自分の意志・判断によって、自ら責任を持って行動する態度や性質」(大辞林

自分の意志を持つことは考えることで、判断で、考えることはみんな違うって個性なのかにゃ〜

判断がないって、人任せになるってことかにゃ〜

判断、考えることが多様であることが寛容な社会って、う〜ん、我ながらあんまり見えてなかった「自分で決めないと自分の人生を生きたことにならない」って主体性の有無、自分で自分の人生を引き受ける覚悟

キーワードに責任って出てきましたよ、旦那。

自分で自分の人生に責任を持つこと。

よく考えてみたら、リーダーというのは、最初のフォロワーがつく前から、リーダーらしさをもっているし、フォロアーがつく前後で、何も変わっていませんよね。極端かもしれませんが、フォロワーがいなくてもリーダーシップがあると考えれば、リーダーとは自分の価値観そのものであることがわかります。

 もっと正確に言えば、リーダーとは価値観そのものであり、自分とは、その価値観の最初のフォロアーであるわけです。他人から何と言われようと、自分自身の価値観に従って生きていくのがリーダーシップと言えるのではないでしょうか。
http://diamond.jp/articles/-/28359

「採用基準」も読まねばなるまいか。

酒井:それは間違いないでしょうね。僕は今、人間が「好きな場所」で「好きな人」と「好きなこと」をして暮らしていく人を増やすことに興味を持っています。これまでは、その3つの要素は分かちがたく一体のものでした。しかし、これからはそれぞれを別々に追求できる社会になっていくはずで、そうなると、自分にとって「好き」とは何かということが、これまで以上に問われるようになってくる。自分が「好き」とおもう事象に、できるだけ忠実に生きることこそが、リーダーシップと非常に近いものなのではないでしょうか

前掲ですが、私は、姫路のおかんの言うことに突っ込みを入れられるほど、経験があるわけじゃないんだよなーでした。

物事に優先順位をつけられる主体性は「されどわれらが日々」の虚無の回答になりうるか?

というか、真実を追い求め続ける態度は、疑似科学対策、常に新しいことを学び続けるしかない態度と関係するか、掘り下げてみたいっす。




社会的に無になっても、世間の価値観は追及できなくても、自分の価値観は追及できる?

拘りを持つことは多分できる。

役に立つことを否定せねばあかんのだが、まあそれは自分的には、心苦しさは生じるかもは認めるけど、しょうがないよね、でファイナルアンサー。

本当に提供出来るものが何もないのかの検討で、そこを人から押し付けられるのはまっぴらごめんよ。

といいつつ、本丸はなぜ私だけが苦しむのか、かもだけど、神谷美恵子がそれも一過程に過ぎなしと?

彼女は、役に立たなしの否定をどう持ってきてたっけな

個人ではどうしようもない力の考察は大江健三郎かもだけど、傍から見たら頭が下がるとしか言いようがなくて、私が何をしてあげられるのかだけが問題で、

私がその立場になったとき、どうしていくのか、は妄想で、批判の根拠にしてはいけないの当事者の時代。

私は私で考える。

人の身になって考えるは、人を優先しすぎで個がないと言えるかな?

私自身は沈黙するが、沈黙を人に押し付けようとするのは醜いと思う、次回は珍しく嫌いなことを掘ってみたいか。

多様であることを認めるのは結局、少数派になった自分を守ることで、僕は物事の全否定がいかに嫌いかについて。

まあ僕は、内心の自由万歳派でしかないわけだけど。