今さらながら、アニメ『けいおん!』の感想。 その1

この想像でものを書くもの(swampman)さんの記事に触発されて、アニメ『けいおん!』の感想と、ちょっとした分析を。
けいおん!」は個人的に今年もっともはまった作品でした。客観的に言ってもも、今年最も成功したアニメの一つでしょう。

ここでは、原作との大きな2つの違いに着目して、『けいおん!』の特徴を整理してみようと思う。

=以下、『けいおん!』のネタばれあり=

1)なぜ原作よりも、シリアスな展開が多い?…物語と日常の二面性
 これは『けいおん!』をめぐって最も賛否が分かれるところでしょう。第9話の「梓の入部後の逡巡」第11話の「律と澪のすれ違い」、最終回の「学園祭のどたばた」は原作にはほとんどない。これらは、原作では短くそしてギャグ(萌え+笑い)の形で描かれているのすぎない。
 さて上の疑問を念頭にいれつつ、アニメ全体について考えてみる。『けいおん!』はある意味で、二面性を持ったアニメといえる。つまり、一方で「物語」という構造を持ちつつ、他方で表面上は「日常」という装いを持っているということだ。ここでいう「物語」とは、全体として起承転結という一本の筋が通っているものを指し、「日常」はそうではない。逆に言えば、日常を描く作品は、作品内の要素の順序を入れ替えることが容易であり、同じアニメで例を挙げると『らき☆すた』や『みなみけ』がそれにあたる。『らき☆すた』でいえば、第1話のチョコ・コロネのくだりは何話に入れても違和感はないだろうし、少しの手直しで一話まるまる場所を動かすこともできるだろう。逆に、「物語」は要素間の順序入れ替えが難しく、例えば『鋼の錬金術師』の各話の前後を入れ替えるなんてことはほとんど不可能に近い。
 話を『けいおん!』に戻そう。果たして、けいおんに物語はあるのかないのか。いくつかの観点で検討しよう。原作は、「物語」としての性質はかなり薄く、「日常」系にかなり近いのではないか。部活を中心に据えている以上、入れ替え可能性は高くないかもしれないが、それは日常系における四季の変遷が入れ替え可能性を低めること、と似ていると言える。
 問題はアニメ。どうやらアニメ制作陣は、限られた話数ということも手伝ってか、原作の「日常」系の良さを残しつつ、そこに「物語」という強い土台を置くことを意図していたように思われる。その「物語」のひとつは「廃部寸前から出発した軽音楽部が文化祭で成功を収めるまでに成長する」ものであり、もうひとつは「何をしたらいいかわからなかった主人公・平沢唯が軽音楽に出会い成長する」というものであった。それは、最終回に明確に現れていて、後者の物語に関してはナレーションベースで明言されている。
 こうして、アニメ全体に「物語」という筋を通そうとするならば、各話はその物語の成立に向かってきちんと配置されなければならない。あたりまえだけど。「平凡な日常をたんたんと描く」わけにはいかない。結果、第1話は「部活の結成」と「唯が軽音に出会う」、第2話は「楽器の購入」というように、各話が起承転結を持ちつつ物語全体の起承転結の中での役割を担うことになる。
 かなりくだくだと書いたが、結局第9話の「梓の入部後の逡巡」第11話の「律と澪のすれ違い」
がシリアスなのは、それが物語全体における起承転結の「転」であったからにすぎない。第11話のサブタイトル「ピンチ!」だった。
 ようやく話は本題へ。原作よりもシリアスに描くことはどんな効果をもたらしたのか。たぶん、シリアス展開が好きじゃなかった人は二種類いるだろうなと思う。「日常」が淡々と描かれる期待していた人には、シリアスな展開は、日常から離れた物語性の強すぎる展開と映ったのかもしれない。また、シリアス展開そのものの物語としての稚拙さを批判している人もいるかもしれない。どうしても、第9話では梓が、第11話では律が、「うざく」感じられてしまうのは否めないところだし、話の展開も「痛い」と思う人も多いかもしれない。
 個人な感想としては、シリアス展開は、上で言った見た目としては「日常」系としつつ、後ろに「物語」という糸を通すと言うアニメ全体の構図をぎりぎりで乱してない点で、悪くないと思う。ただ、製作陣が、「部活を作る」という物語をはっきりと見せることを意図していた(ここは微妙なところだけど)としたら、それは失敗したと言ってよい。あくまで、『けいおん!』は日常を描いた作品であって、部活という成長物語はあくまで後景にあるのにすぎない。
 じゃあ最初から物語なんていらなかったじゃないかという意見も成り立つわけだけど、私としては「日常」と「物語」を両立させる形式はおもしろいと思うし、ヒットしやすい形式なんじゃないかと邪推する。
 そういえば(同じ京都アニメーションの)『涼宮ハルヒの憂鬱』も、「日常」と「物語」をうまく両立させた作品だった。そこでは同じ出来事が、部外者あるいはハルヒの視点からは「日常」となり、キョンなど当事者にとっては「物語」として現れていた。(顕著な例が「涼宮ハルヒの退屈」であった)

補足)『けいおん!』とリアリズムと萌え要素 
 シリアス展開に関しては、「シリアスにしたりピンチを描くにしても他のパターンもなかったのか」という疑問(つまりシリアス展開の物語としての出来のよさ悪さという問題)もあるだろう。
 トラックバック元でも指摘されていたけれど、『けいおん!』は、リアリズムっぽさが結構あって、シリアス展開もそんなリアリズムの一環と考えてもいいのかなと思う。自分と仲のいいはずの人が他人と親しそうなのを見ておもしろくないと思ったり、期待して入った組織(部活)が思ってたの違ってがっかりするのは、普段よくある話だったりする。
 リアリズムに関していえば、キャラクター造形もリアル指向なような気がする。髪は茶髪と黒髪に押さえ、設定も比較的おだやかで、天然系お嬢様という紬のありきたりな設定が目立ってしまうほどでもあった。
 じゃあ、『けいおん!』が完全にリアル指向だったっかということはなくて、きちんと「萌え要素」を導入してくるところは、賢いつくりに思われた。後半は、主人公達の輪にぎりぎり入らないくらいの距離感に配置された顧問「山中さわ子」が、萌え要素の供給源として機能したのも、うまいなと思った。


長くなってしまったのでその2へ
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