第126回 さながらファッションショー 夏は華麗な盆踊り

     〜郡上、西馬音内、山鹿、八尾をたずねて〜
         
  日本の夏は盆踊りとともに過ぎてゆく。日本三大盆踊りは秋田の西馬音内(にしもない)、岐阜・郡上八幡、徳島・阿波が有名だ。8月15日前後が踊りの最 高潮になるが、郡上八幡は7月中旬から33夜の間、町内ごとに踊りが幕開け、町内を巡回して8月13日から4日間にわたる徹夜踊りを迎える。
  郡上はJR高山本線岐阜駅か ら美濃大田で下車、ここからは長良川鉄道に乗り換える。もともとは国鉄越美南線が走り、国鉄フアンに人気があった。民営化で長良川鉄道が引き継ぎ、長良川 沿いの渓谷は車窓の名所になっている。郡上は太田発10時40分の気動車で1時間50分の山の中。福井、名古屋、高山とはほぼ等距離にあり、長良川水運と ともに中部山岳地域の交通要所になった。
  戦国末期の守護遠藤盛数から明治まで19代続いた城下は藩主が遠藤、稲葉、青山とたびたび交代したが、領内融和のきずなになったのが郡上踊りである。藩主奨 励なくして大規模な踊りは継続できない。念仏踊りをもとにした城下総ぐるみの踊りは幕府から警戒されながら、山奥の地もあり、藩主交代しても続いてきた。
  川の瀬音ゆかしく下駄の音を響かせて郡上の夜は開く。〽郡 上の八幡出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼるーなど10種類の歌詞と下駄音のリズムで踊りあかす醍醐味は参加しないとわからない。下駄屋では特別に好みの 鼻緒でつくってくれる。下駄の鼻緒が見えるように踊るのが娘たちの踊りのセンスだ。ファッションショーでモデルが足をくねくねしながら歩くあの感じに似て いる。
  踊り手の衣装の素晴らしいのが秋田羽後町の西馬音内(にしもない)盆踊り。羽後町は奥羽本線湯沢駅から西へ10キロの小さな町である。ところが8月16日は 全国から盆踊り見物の観光客がどっと押し寄せる。人口2万人の町は10倍以上の観光客があふれ、異常なほどの熱気につつまれる。盆踊りの見ものは踊りとは 別に踊り手の女性たちの鮮やかな衣装にある。東北きっての豪雪地帯で染め上げた色とりどりの絹布を継ぎ合わせたパッチワーク浴衣を身にまとい、手の指を反らして踊る女性たち。世界にも誇るファッションの担い手である。
  子規の弟子の俳人河東碧梧桐は明治40年、滞在の町で踊りと遭遇し、「日本で初めて絵になる盆踊りを見た」と、感嘆の言葉を残している。8月16日、出羽の 山並みに日が沈むころ、子どもたちがかがり火の本町通りに繰り出して祭りは幕をあける。黒い布をすっぽりたらし、豆しぼりの彦三頭巾、編み笠に藍染、端縫 い浴衣の男女が通りを埋めるさまは劇的である。しかも野趣に富み、哀調ある歌声にのって、女性がしなやかに手を振り、足を運ぶ優雅なパーフォーマンスは魅 惑的だ。大正時代、警察が風俗を乱すという理由で祭りを弾圧するほど人々は祭りに酔いしれた。ヤート−セー ヨイワナ セッチャ 隣の娘を踊りこ教えたら ふんどし礼にもらた さっそくもてきてカカアにみせたば 横面なぐられたー山国の夏は開放的だった。
  鎌倉時代から続くこの祭りは年月と住民の手で磨かれまれにみる美的センスの盆踊りになった。それは東北人のセンスの良さにほかならない。最澄と論陣を張り、 一歩も譲らなかった平安時代の僧徳一は、会津磐梯山爆発の地獄絵の中で祈りをささげ、地域民から慕われた。彼は親交ある空海にも意見をしている。さらに鎌 倉期には平泉の藤原氏が独自の文化を開いた。野趣と雅の合体した伝統は都離れた辺境の地で京の祭りにはない文化を創造したといっても言い過ぎではないと思う。
  九州に行くと、8月15、16日の熊本県山鹿の燈篭踊り。大文字の送り火が注目を集めすぎて、熊本以外の地ではTVに登場するのはまれだ。踊りは小学校グラ ンドに櫓を組み、千人の浴衣姿の女性が何重もの輪をつくる。女性たちの頭には金、銀の紙製燈篭がのっている。その動きはカメラをスローにしたかのような ゆっくり、優雅に繰り広げられる。
          <山鹿の骨なし灯ろうの写真>
  〽ぬしは山鹿の骨なし灯ろう よへほ よへほ 山鹿千軒たらいなし よへほ よへほーと幻想的な踊りである。8世紀の筑後風土記には『肥後国山鹿』の紹介があり、遡れば景行天皇にまつわる伝承が残っている。熊本市から北へ30キロの山裾には江戸期に薩摩、人吉、熊本各藩の参勤交代の道である豊前街道が整備され、宿場町でにぎわった。細川家ゆかりの温泉『さくら湯』は復活して、市民の湯になり、観光客を楽しませている。
  景行天皇が巡幸のさい、濃霧のため道がわからず、住民が松明で案内した故事や温泉発見が踊りの始まりというが、あくまで伝説の域をでない。あのスローテンポ の優雅な踊りと、あざやかな金、銀燈篭をかぶる衣装はあやしげだ。夏の夜、山鹿に紛れ込んだ旅人は踊りを前に現世を忘れてたちつくしたにちがいない。
  東北と九州の山間部で繰り広げられる日本の夏踊り。一方はモダンな衣装感覚にあふれ、他方は王朝風絵巻のテンポを再現している。山また山の地で伝承されてきたのはまぎれもなく土地の風土、文化である。鄙にはまれなとか田舎ものなどいう言葉は、盆踊りにはあてはまらない。
  盆踊りの掉尾は越中八尾の『風の盆』。盆踊りなどというありきたりな名ではない、おはら風の盆を全国に広めた。
  越中八尾(やつお)は高山本線富山駅か ら6駅目のここも小さな町である。八尾の名は飛騨の山並みが越中へ幾重にも重なる風景に由来している。人口2万人余の町は8月末から一気に人の波でふくれ あがる。駅から上り勾配の坂道が続き、ここを人が行き交うさまは普段の八尾を知るものには、まるで知らない町を歩く気分だ。
  江戸時代、町のそばを流れる井田川の氾濫で壊滅的な被害を受けた。このため、段丘の上に人家が並ぶ。川沿いの道から見上げると、石積みが築かれ、その上に家が建っている。養蚕と和紙で繁栄した町は若者の流失が続き、駅乗降客は一日、800人でしかない。
  富山藩のお納戸とまでいわれた隆盛は町のたたずまいや祭りなど伝統行事からしのぶことができるが、中でも風の盆は町を離れた家族、親戚が集まる最大の催しである。
        <郡上八幡の写真>
  風の盆という呼称は二百十日前後に稲作の無事を祈願する目的で始まったというが、歴史は江戸以降である。富山には農作業の休みを盆と称する習わしがあり、種まき盆、雨の盆など休みは盆だった。日本海の風はダシと呼び、各地に風の宮ができるほど富山名物になっている。
  作家の高橋治は金沢の第四高等学校生の頃、風の盆を見て、誇り高い金沢市民 が一目置く風の盆に魅了され、通うようになった。1985年、全国的に知られていなかった風の盆と中年男女の不倫を重ねた小説『風の盆恋歌』発表したとこ ろ、小説がヒットして代表作になった。不倫という言葉が一般化するのは83年の『金曜日の妻たち』からといわれている。それまではよろめきが使われた。 妻、夫ある男女が学生時代の思い出の場所である八尾で年一度の風の盆の日、出会うなかなかロマンチックでスリリングな小説だった。男は大手新聞社の外報部 長、女は京の医者の妻の設定になっていて、金に困らない男女が風の盆の夜を過ごす、なんともうらやましい限りと思いつつ、引き込まれる不思議な本だった。
  高橋治は昨年、86歳で死亡、昨年の風の盆は追悼の踊りになった。
  風の盆は旧11町に伝わる衣装で徹夜の踊りを繰り広げるが、編み笠の男女のいでたちは色っぽい。小説では血液の難病にかかった男が女と八尾で再会できず、息絶え、駆けつけた女も服毒して終わる。盆の夜、〽歌われよ わしゃ囃す もしやくるかと 窓押し開けて キタノサー ドッコイサノサー 見れば立山 オワラ 雪ばかり
  哀調ある歌声が町に流れ、胡弓の調べ続く。胡弓が風の盆の楽器になったのは明治の初めである。以来、オワラは囃し、歌詞とも改良を加えられ、今日の姿になっ た。八尾の医師川崎順二が昭和4年、すたれゆく風の盆に危機感を抱いて保存会を結成し、町ぐるみの運動を展開した。サングラス美人の言葉があるが、編み笠 を深くかぶって踊る若い女性は美しい。ちらりとのぞくアゴのあたりがたまらない。

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  メモ 郡上八幡おどり 8月12日まで各町内で踊り開催。13日から16日までは徹夜踊り。一般参加もできるが、土日と徹夜踊りの期間中、踊りレッスンがある。520円。踊るなら下駄は必。

   西馬音内踊り 8月16日から18日夜7時から11時まで。
   山鹿燈篭踊り 8月15日から17日。千人踊りは16日夜。
   風の盆    8月20日から30日前夜祭。本祭1日から3日
   いずれも混雑するため、地元確認の必要あり。

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