機能から構造へ

別ブログの「雑記6」の記事(の後半)に出てきた「チームX(テン)」についてのメモ。

黒川紀章著「都市デザイン」第二章「機能的都市の成立と変質」(1965年)より。

CIAM*1の崩壊

 CIAMの停滞は、CIAM組織そのものの停滞にも現れた。(中略)第十回CIAMは、動脈硬化に落入った会議に新しい息吹きを導入しようとする、若い建築家達を中心に準備され、その会議のテーマに

の四つを選んだのである。そして、一九二八年からつづけられたCIAMは、実質的にはこの第十回ドゥブロニク会議をもって、その幕をとじることになるのである。

チーム・テン・グループ

 第十回の会議を準備した建築家達(中略)は、チーム・テン(第十回会議を準備したことに関連した名称)というグループを結成し、(中略)一九五九年六月に、(中略)各国から五十人の建築家*2が集まったのである。(中略)この会議を通じて出席者の間に三つの基本的な方向があることが確認されている。

  • 第一の方向は、今までのCIAMが追求してきた近代建築、都市の特徴をそのままに引きついでいるもの。
  • 第二の方向は、機能主義に対する反発とも見られるもので、意識的な芸術作品で、使用者に対してある運命的な行動類型を強いているもの。
  • 第三の方向は、CIAMの成果をふまえたうえで、それを一歩乗り越えようとしているもの。

 チーム・テンの主流をなす考えかたは、第三の方向である。

「建築とは、確かなもの、疑わしいものすべてを含めた、あるがままの設定条件のきびしい相互作用であって、建築それ自身には協和音をもたない。過去とのきずなは、なかに住もうとする人達のそれと同じ要因をなし、運動や変化のなかにあってはじめて形態が連続して出てくる。そこには形態の限界を越えた言外の意味が明らかになる。」

と彼らは主張する。

そして、1962年にパリで開かれたチーム・テンの会議(黒川紀章も出席)では、次のような討議テーマが決まる。

「都市の基本的な骨組と個々の建築群との、相互的な概念に焦点を合わせること。これまでに、コミュニケーションのシステムが都市の骨組になり、それが個々の建築群に組織化へポテンシャリティを与えるということがかなり明瞭になっているが、そのポテンシャルがどのようにして、実際の個々の建築群のなかで持続するかという問題、いいかえれば、都市の基本的な骨組のもつ浸透性についてはまだ明瞭でない。そこで、現在見受けられる二つの方向について討議がなされるべきである。一つは、個々の建築の集まりのなかに基本的な骨組を挿入してやる方法であり、もう一つは、むしろ個々の建築つまり都市の構成単位をつみ重ねていくこと*3によって全体を予期される全体像へ導いていこうとする方法である。」

そして、著者(黒川紀章)は、

 ここに述べられた問題点こそ、CIAMの機能的都市の行きづまりを乗り越える突破口に思われる。都市を機能的に把えようとするCIAMの態度そのものは間違っていなかったのだが、都市の時間的な変化・成長、そして質的な転換・変身に対する方法をもたなかった。今われわれの追求しなければならないのはまさにこの方法なのである。

と、(1962年に)述べる。

(続く) →「機能から構造へ-2

*1:CIAM近代建築国際会議)は建築家たちが集まり都市・建築の将来について討論を重ねた国際会議。モダニズム建築(近代建築)の展開のうえで大きな役割を担った。1928年に始まり、1959年までに各国で11回開催された。(中略)グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジエら24人の建築家が参加した」(ウィキペディアより)

*2:「イタリーからはロジャース、ガルデラ、マジストレッティといったBBPRの面々、アメリカからルイ・カーンスウェーデンからエルスキン、スペインからコデルチ、日本からは丹下健三氏らが招待され、チーム・テンの指導者格である、イギリスのピーター・スミッソン、アリソン・スミッソン、スターリングをはじめフランスのキャンディリス、ウッヅ、ノルウェーのグルン、オランダのヴァン・アイク、バケマ、ポーランドのソルタン、ハンセン、ハンガリーのポローニ等々」(同書より)

*3:後の「Habitat 67」(モシェ・サフディ設計、1967年)か