かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

ドリームガールズ(上映中)

上映がはじまったばかりなので、詳しい内容はふれませんが、抜群にたのしい音楽映画でした。ソウル・ミュージックのすばらしさを堪能できます。

背景は1960年代前半。黒人の女性ソウルグループ*1がコンテストで注目をあびます。すばらしい可能性をひめた女性グループですが、新しい彼らのマネージャーは、白人のファン層をひろげるためにと、強烈なビートをうすめ、洗練されたコーラスグループに変身させます。そのために、圧倒的な歌唱力をもつリード・シンガー(ジェニファー・ハドソン*2をあえてグループからはずしてしまいます。


【写真】:アレサ・フランクリンを連想させるジェニファー・ハドソン


60年代の前半では、ブラック・マーケットの市場が限られていたことは想像できます。ビートルズローリング・ストーンズエリック・クラプトンなどが、やがて黒人音楽のソウルやブルースをカバーして有名にしますが、一方黒人たちも表現をやわらげることで、白人音楽にあゆみよっていくことを模索していた時代でした。

そんななかから、現実に大ヒット曲を連発したあのダイアナ・ロスシュープリームスというビッグ・グループが誕生したことは、どなたもご存知だとおもいます。この作品はそのへんを素材にしてつくられたようです。

しかし、黒人音楽が白人向けに表現をやわらげたといっても、ただ品質をさげたものではないことを、この映画はしっかりみせてくれます*3。同じ「ワン・ナイト・オンリー」という曲を、アレサ・フランクリン流にジェニファー・ハドソンが絶唱して歌うシーンと、洗練されたディスコ・ミュージックのアレンジでビヨンセが歌う場面をつないで登場させますけど、どちらもすばらしいアレンジで迫ってきます。


【写真】:ビヨンセ、きれいです!


ビヨンセジェイミー・フォックス*4ジェニファー・ハドソンエディ・マーフィーなどのキャストもいいですね。

それから、舞台裏の人間ドラマをごてごて描いていないのがいいとおもいました。反対の悪い例が、音楽シーンをぶつ切りにして、わかりきった人間ドラマをくどくど描いている映画です。音楽関連の作品を見ていると、そんなのにであってがっかりします。

映画『ドリームガールズ』も、人間ドラマとしては、これまでよくある定型をぬけてないのですが、「音楽80%ドラマ20%」なので、その欠陥を感じることなく、存分に音楽をたのしめました。

[追記]:音楽がたのしかったので、サントラを発注いたしました。かなりいれこんでいます(笑)。

*1:黒人の女性ソウルグループ=シュープリームズがモデルのようです。

*2:圧倒的な歌唱力をもつリード・シンガー=音楽的には、アレサ・フランクリンを連想しました。

*3:白人が黒人を甘ったるくカバーしたシーンも、映画に登場してきます。これは笑えますよ(笑)。リトル・リチャードが、「のっぽのサリー」を、パット・ブーンが骨ぬきカバーしたのをラジオで聴き、激怒したことを映画『ヘイル・ヘイル・ロックンロール』で話していましたけど、それをおもいだします。

*4:ジェイミー・フォックス=彼がレイ・チャールズに扮した『RAY』も記憶にあたらしいですね。

スティービー・ワンダーのライヴを見る

ベスト盤ていどの知識でしたが、たのしく見ました。終ってから、ringoさんと一杯のんで帰宅。ライヴの話だけでなく、映画や愛犬ジュリアの話をたくさんできてたのしい1日になりました。

スティービー・ワンダー・コンサートの感想は、ringoさんのブログへ。

灰谷健次郎『砂場の少年』

砂場の少年 (角川文庫)
最近読んでおもしろかった本の1つ。

30代で転職してきた新任の男性教師が、学校が問題児たちと評価する子どもたちの声に耳を傾け、子どもを置き去りにした管理教育の実態を知る……簡単にいえばそういう作品です。生徒たちの描き方が理想的すぎはしないか、とおもうところはありますが、ぼくはすごく共感しました。ただし書かれたのは現代ではなく、1990年です。

きっとこういう教師がいれば、いま教育の現場で起きている問題の多くは解決するのでは、そんなことをおもってしまいます。読んでみないと、なんのことかわからないでしょうけど(笑)。


そこで参考までに、いくつか抜粋してみます。

  • 「教師どうしでいくら、ああだ、こうだといい合っても、研修につとめたとしても、それには限界がある。おれは教育の素人(しろうと)だけど、なんとなくそれがわかるんだ」

「じゃ、先生はどうすればいいと思っているんですか」
「子どもから学ぶ。生徒から学ぶということしかないのじゃないかと思う」

  • 「この前、職員会議で、ある若い先生が人にものを教えてる資格なんて誰にもない。しかし、教師は必要だし、現に自分は教師をしている、自分のたった一つの良心みたいなものは、自分は生徒よりも一段上だから、生徒に号令をかけてもいいんだという思い上がりだけは持たないようにしている(といっていた)」
  • 「ある人が、子どもの可能性の問題に触れて、教師があらかじめ用意した学習の内実によって、これこれの進歩があるだろうと予測できるような子どもの変化は、ほんとうの可能性とはいわない。ほんとうの子どもの可能性とは教師の予測をはるかに越えたとてつもなく大きなものであるという意味のことをいってるんだね」
  • 「教師と生徒の離反というのは、そういう子どもたちの感性や想像力に、教師のそれが追いついていかないところから出てくるんじゃないかな」

思いつくままの抜書きですが、いま論議されている教育基本法の改案は、この引用の発想とはまっこうから対立しますね。授業数がふえ、管理は強化され、体罰が容認される……。 

教師として不適切な教員を再教育する、という考え方もおそろしいです。誰がそれを判定するのか。校長、教頭、教育委員会? 彼らに都合のいい教師がいっぱいふえるだけじゃないか、と。

抜粋だけみると硬い小説のようにおもえますが、中学生が読んでもわかるやさしい作品です。共感できるところがありましたら、読んでみてください。