フランス王アンリ4世

 フランスにおけるカトリックプロテスタントの血みどろの宗教戦争終結させフランス国民の間で最も人気がある国王アンリ4世の首(頭部のミイラ)が死後400年ぶりに発見されたそうです。アンリ4世の遺体はフランス革命後の1793年に墓から暴かれ頭部が切断されて行方不明になっていたのです。
 1553年、アンリはブルボン家の父アントワーヌとフランス側バスクナバールスペイン語ナバラ)国女王の母ジャンヌとの間にフランスバスクのポーで生まれますが、当時はフランスのカルヴァン派プロテスタントユグノー)とカトリックが激しく対立していた時代で、母ジャンヌは熱心なプロテスタントでした。父アントワーヌは母ジャンヌの影響でプロテスタントに帰依するも、軍最高司令官に就任すると熱狂的なカトリックの国王派に従いカトリックに改宗、母ジャンヌは宮廷を去り、幼いアンリはカトリックに改宗させられます。そして、1562年、国王派によるユグノー虐殺事件を契機にユグノー戦争と呼ばれた、休戦を挟んで8次40年に及ぶ王位継承問題も絡めた殺し合いの宗教戦争が始まります。
 この戦争で父アントワーヌが戦死し幼いアンリがブルボン家の当主となりますが、休戦中の10歳のとき南仏サロン・ド・プロバンスに立ち寄った際、あのノストラダムスに遭遇し将来フランス国王になると予言されたという逸話が伝えられています。
 父の死後アンリは母にナバール国へ連れ戻されプロテスタントに改宗、ユグノー陣営の盟主となって戦い、1572年、母ジャンヌが急死してナバール国王になります。1572年といえば、スペインではフェリーペ2世がレパント沖海戦でイスラム艦隊を撃退し西欧文明が東洋文明を抑えて世界の覇権を確立した1571年の翌年のことです。
 その後も、アンリはユグノー戦争の期間を通じカトリックプロテスタントの改宗を繰り返させられますが、1589年、35歳にしてプロテスタント王としてフランス国王に即位、1789年のフランス革命まで200年間続くブルボン王朝を開きます。この1589年はスペインではフェリーペ2世の無敵艦隊イングランド艦隊に敗退した翌年です。つまり、アンリ4世の即位を契機にスペインは英国だけでなくフランスの後塵をも拝して行くことになります。
 アンリ4世は、カトリック信者が圧倒的なパリがプロテスタント王を受け入れることはないと悟り、1593年カトリックに改宗、1598年には有名な「ナントの勅令」を発しカトリックをフランスの国教と宣言すると同時に多くの制約をつけながらもプロテスタントの信教の自由を認め宗教戦争の終息を図りました。そして17-18世紀の太陽王ルイ14世を頂点とするフランス絶対王政の時代につながって行きます。しかし、アンリ4世は広く国民に愛されながらも、1610年、狂信的なカトリック教徒に暗殺され56歳で生涯を閉じます。
 因みに、フランスではナポレオンの失脚後一時的にブルボン王朝が復古、スペインではカルロス2世の死去でスペインハプスブルグ家が断絶したのを機に太陽王ルイ14世が孫のフィリップをフェリーペ5世としてスペイン王に即位させスペインにブルボン王朝を開きます。現国王フアン・カルロス1世は、スペイン内戦を制した独裁者フランコの死後、スペインブルボン家が復古して誕生しました。


【ココのつぶやき】

♪ アンリ4世って、ママがバスクナバラ女王だしブルボン王朝を開いたひとで、スペインとはとっても関係深いんだ、いまのフアン・カルロス国王はボルボン家だもんね ♪
♪ いまのボクはクイーンズスクエアのマックの屋外テーブルで歯磨きおやつを食べたところです ♪

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