インドネシアコーヒーの歴史と品種(1)

#3回くらい引っ張る予定。


インドネシア、特にジャワ島は、しばしば「イエメンに次いでコーヒー栽培が行われた、古い産地である」と言われる。本当に「イエメンの次に栽培された」と言っていいかというと、ちょっと微妙な点はある*1のだが、まぁ「商業規模で」と言うのならばOKかなぁ…という程度だ。細かく考えると微妙ではあるが、少なくともイエメンの「モカ」に続く一大ブランドとしてインドネシアの「ジャワ」がヨーロッパを席巻したことには間違いない。

*1:年代的には、明らかにスリランカやインドへの移入が早いし、初期のエチオピア東部でも「栽培」されてなかったか、と言えばやや微妙なので。

オランダによるインドネシアのコーヒー栽培

インドネシアでコーヒーの栽培がさかんになったのは、ひとえにオランダ、さらに言えばオランダ東インド会社(以下、VOC*1)の「功績」である……それを単純に「功績」と言っていいのであればだが。


17世紀、オランダは東インド地域での香辛料貿易の覇権をポルトガル、イギリス、イスラム諸国などと争った。1619年、VOC総督ヤン・ビーテルスゾーン・クーンは、ジャワ島西部にあったイスラム国家、バンテン王国に属していた北岸の港町「ジャヤカルタ」(現在のジャカルタ)を占拠した。ここをバタヴィア(Batavia)と名付け、強固な要塞バタヴィア城を築いて、この地をインドネシアにおける貿易拠点にしたのであった。


VOCのインドネシア支配は、当初「点と線」と言われたように、貿易品の集積と、日本や台湾などとの東方貿易のための中継点という目的が大きかった。周辺の島々から得られるコショウなどの香辛料や、東方貿易の中継点として栄えたが、やがてヨーロッパにおけるコショウの価格暴落や、鄭成功の台湾占拠による対中貿易破綻によってその繁栄に翳りがおとずれる。するとVOCはインドネシアの島々を領土化し、そこで熱帯作物を栽培して利益を上げるという戦略へとシフトしていった。俗に言う「面」の支配への移行である。当初これは綿花やインディゴ(藍)などで試みられたが、もっとも成功をおさめたのがコーヒーであった。


当初、VOCの支配が及んでいたのはジャワ島の限られた地域であった。島西部の北岸にあったバタヴィアから、そのまま南の内陸部へと続くプリアンガンと呼ばれる地域がそれにあたる*2。VOCはこの地域で、「ブパティ」と呼ばれる現地社会の首長を、官僚として任命した。そしてプバティを介して、通常の税とは別に、オランダ側が指定する作物を栽培して供出する*3ことを領民に科した。この制度は「プリアンガン制」あるいは「義務供出制」とも呼ばれる。後に本格化する「強制栽培制度」の原型は、この頃に出来上がっていたのである。1677年にプリアンガンがVOCの直轄領になってからも実質的な支配はブパティに委ねられ、この地で大規模なコーヒーの義務供出制が実施されて、VOCは莫大な利益を得た。やがてVOCはその強大な武力をもって、インドネシア諸王朝の対立に付け入るかたちで、その支配する地域を徐々に広げていった。それに伴って、コーヒー栽培もまたインドネシア全体へと広がっていった。


1798年、その無計画な経営方針と急激すぎる領土拡大による財政悪化から、VOCが解散すると、インドネシアはオランダ本国によって直接統治されることになった。しかし、19世紀の初頭にはオランダ本国がナポレオンによってフランスに併合され、インドネシアは1811年から1816年にかけて、イギリスによる植民地統治を受けることになる*4。1814年にイギリスとオランダの間でロンドン条約が締結され、イギリスがマレー半島を、オランダがスマトラ島をそれぞれ統治することを相互に承認し、インドネシアは「オランダ領東インド」として、再びオランダの植民地統治下に入る。


しかしその後、1820年代に入ると、ジャワ島(ジャワ戦争)やスマトラ島西部(パドリ戦争)での反乱が勃発した。バタヴィア総督府はゲリラ戦に苦しみながらなんとか制圧していったものの、莫大な軍事費によって財政が悪化した。さらにオランダ本国でも経済情勢が悪化*5していた。

これらの財政危機を解決するため、1830年バタヴィア総督になったファン・デン・ボスは、植民地利用による財政復興を計画し、かの悪名高い「強制栽培制度」を導入したのである。

この制度では、農民は耕地の5分の1を使って、オランダ側が指定する作物の栽培を行うことが強制された。オランダ側はその耕地にコーヒーノキを植えさせ、また別の年には、市場価格に応じてコーヒーノキを切らせて、東インドでのコーヒーの生産量をコントロールした。収穫された作物は、オランダ側が決めた価格で安く買い取られた。農民には安い賃金が支払われたものの、その大半は税として徴収され、さらに無償の夫役義務まで課せられた。このようにしてオランダは、植民地の生産力を最大限に搾取し、インドネシアのコーヒー栽培で大きな利益を得ることに成功したのである。

*1:オランダ語で「東インド会社」を意味する"Vereenigde Oostindische Compagnie"の略。

*2:この他、ジャワ島東北海岸領なども該当した。

*3:無償で供出する場合と、オランダ側の言い値で安く買いとられる場合があった。この両者を区別して用語を使い分けるケースもあるが、実質的には両方のケースが混在していたらしい。

*4:このとき植民地経営に当たったのが、後にシンガポールを興したトーマス・ラッフルズである。

*5:1830年に有力な工業地帯であったベルギーがオランダから独立したことがその原因である。

インドネシアへの伝播

#アラビカ種ティピカの年譜

  • (1670年?ババブダンがモカ港からインド西部にイエメンのコーヒーを持ち帰る。後のオールドチック)
  • 1690年 ジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)に、イエメンから来たコーヒーノキが植えられる?
  • 1696年 インドのマラバールからの本格的な移植(第一回)。翌年、水害で全滅して失敗に終わる。
  • 1699年 マラバールからの移植(第二回)。インドネシア全土へ普及。「ジャワ」という銘柄のはじまり。
  • 1706年 バタビアからアムステルダムの植物園にコーヒーノキが送られる。
  • (1714年 アムステルダムからパリ植物園に寄贈)
  • (〜19世紀末、オランダ・フランスの手で世界に広まる)
  • (1753年 リンネが押葉標本にCoffea arabica命名。「アラビカ種」という名の始まり。)
  • (1913年 クレーマー P.J.S. Cramer がリンネの基準標本に「ティピカC. arabica var. typica という変種名を付ける。)


インドネシアにコーヒーが伝わった年としては、文献上、1690年、1696年、1699年の3つの年代が挙げられている。このうち最初の「1690年」には、VOC総督ジョアン・ヴァン・ホールンが、ジャワ島のバタヴィアにあった彼の家の庭に、イエメンからこっそり持ち出したコーヒーノキを植えたとされる。これが記録上、インドネシアへの最初の伝播であるようだ。このときの木は、イエメンのアデンから持ち出されたものだと考えられる。ただし、この記録を採用している文献が多くない*1ため、正確なところはよく判らない。


また、後にジャワ島全体で栽培されていたものも、この木の子孫というわけではないようだ。

インドの西海岸にあるマラバールから送られたコーヒーノキがジャワ島に送られて商業目的での栽培が始められた。これが1696年のことである。ただし、このときに持ち込まれたコーヒーノキは翌年バタヴィアを襲った水害によって全滅してしまった。そこで1699年、再びマラバールからコーヒーノキが送られた。それがジャワ島全体に広まり、その後スマトラやスラウェシなど近隣の島々へと広まっていったとされる。これこそが、後の「ジャワコーヒー」の起源と目されるものだ。すなわち、その起源はインドのマラバールということになる。


では、このマラバールのコーヒーはどこから来たものなのか? この頃までには、ババ・ブダンがインドにコーヒーをもたらしていた*2と考えられるのだが、インドネシアに持ち込まれたコーヒーが、そのインドのコーヒー(オールドチック)だったのか、それともモカやアデンから運び出されたものが、一旦マラバールを経て辿り着いただけなのか、はたまた1658年にスリランカ(セイロン)に植えられたコーヒーとの関係はどうなのか……考えだすと本当にきりがない。


きりがないのでとりあえず、話を一旦別の方向に進めてみよう。

1706年には、インドネシアバタヴィアから、オランダのアムステルダムにある植物園にコーヒーノキが送られた。この木の子孫は、かたやオランダ人の手によって、1718年にスリナム(オランダ領ギアナ)に持ち込まれ、かたや1714年にはフランス国王ルイ14世に寄贈された後、フランス人の手によって中米へと持ち込まれ、18世紀末頃までに世界中に広まることになる。

スリナム経由にせよ、フランス経由にせよ、中南米に初期に伝播したコーヒーはインドネシアのものに由来すると考えてよい。しかし厳密に言うとここもまた、アムステルダムに送られたのが、1690年にバタヴィアに渡ったものの子孫なのか、1699年にマラバールから運ばれて来たものの子孫なのかはよく判らない。そもそも、その両者が同じものだったのか、元から別物だったのか、それとも元は別物ながら途中で混ざってしまったものなのか、両者の関係についても現在ではよく判っていない、というのが正直なところだ。ただ少なくとも、1690年と1699年のものには、植物学上、簡単に識別できるほどの「大きな違い」があったわけではないだろう。もしそうならば、文献上でもっと違いが強調されていてもおかしくないからだ。


このときインドネシアからオランダに送られたコーヒーノキの子孫はヨーロッパの植物園で栽培されつづけた。1753年、そのうちの一つから作られた押葉標本に基づいて、リンネがCoffea arabicaという学名を付けた*3。これが「アラビカ種」である。20世紀には、Cramerがこのアラビカ種にいくつかの変種があることを提唱した。Cramerは1913年、元々の基準に当たるこの標本に「標準」を意味するtypicaという変種名を「新たに」提唱し、C. arabica var. typicaと名付けた*4。これが今日の「ティピカ」という名の元になっている。


リンネが命名した当時の標本は、インドのマラバールに自生*5していた植物を、インドネシアで人為的に栽培したもの由来だと考えられていた。またイエメン、インド、インドネシア、そしてオランダに渡った以降のものは、「ティピカ」という一つの系統を成すものだと考えられたのである。つまり、インドネシアに初期に導入されたコーヒーノキの品種は、植物学的に「ティピカと同一」、あるいは少なくとも「同一と見なしてよい」ものと考えられている。

ただし、植物学的にはアムステルダムを経由して広まった子孫は、まぎれも無く「ティピカ」と同じ系統のものだと言ってよいのだが、厳密に言うならば、オランダ「以前」のものをティピカと呼んでいいかどうかについては微妙な点もある。どこまで遡って「ティピカ扱い」していいか、というのは意外に難しい部分がある。しかし、新芽の色がブロンズ色であるなど、大まかな植物学的特徴が一致することから、これらはすべて同じ「ティピカの系統」のものとして扱うのが一般的だ。


ティピカという名前が植物学上は正式な命名ルールにしたがっていないことと、やはり厳密には、オランダ以前のものは、それ以降のものほど出自がはっきりしていないことから、最近は別の呼び方をする人が海外の研究者には増えて来ている。

変種名としての"typica"はルール上無効で、種小名と同じ"arabica"が有効になることと、栽培品種名としてならば'Typica'という命名にも問題がないことから以下のような扱いをする場合がある。

  1. いわゆる「ティピカの系統」に含まれるものは、アラビカ C. arabica 'Arabica' という栽培品種とする。
  2. ただし、オランダ以降のものであれば、ティピカ C. arabica 'Typica' という栽培品種と呼ぶこともある。


ただし日本人から見ると、このルールはこのルールで頭が痛い。英文では、頭文字が大文字か小文字か、斜字体にするかしないかで、少なくとも表記上では区別がつくのだが、日本語で表記するとなると、種名も栽培品種名も「アラビカ」になってしまって都合が悪い。……というわけで、ここでは基本的には単に「ティピカ」と書き、明確に区別したいときだけ「ティピカ」「ティピカ系」と書くことにしている。

*1:The Los Angeles Times, June 30, 1899, p. 7に見られる。ソースが新聞記事である点からも信憑性については疑いは残る。

*2:「■インドにおけるコーヒーの歴史」 参照。

*3:■アラブのジャスミンからアラブのコーヒーへ」参照。

*4:ただしこの命名法はルールに従ったものではないため、植物学上、この変種名は無効である。通常、「基準種」の下位に変種などが設けられた場合、それまでの基準種には、種小名と同じ変種名などが自動的に付与される。これをautonym(自動名)と呼ぶ。従って、仮にC. arabicaの下に別の変種を提唱するならば、それまでの基準種はC. arabica var. typicaでなく、自動的にC. arabica var. arabicaになる。

*5:当時、ババ・ブダンによるインドへの伝播は欧米人に知られていなかったため、イエメン・エチオピア・インドがアラビカ種の自生域だと考えられていたことによる。

「三原種」の揃い踏み

その後、インドネシアのコーヒー栽培は大きな災厄に見舞われる。19世紀後半に発生したコーヒーさび病の蔓延*1である。ケニア1861年に発生したさび病スリランカ(1868)、インド(1869)に到達し、それぞれの国のコーヒー栽培を数年のうちにほぼ壊滅させた。インドネシアでも1876年に最初に発生し、数年後には壊滅的な被害をもたらした。

20世紀初期には、インドネシアではアラビカ、リベリカ、ロブスタが混在して栽培されることになった。当初、さび病によって被害を受けたアラビカを、リベリカが置き換えるような形で広まり、さらにその後、それをさらにロブスタが置き換えるような形で広まった。一時期には、インドネシアのコーヒーのほとんどがロブスタに植え替えられたような状態になったという。


#ロブスタとリベリカの年譜

リベリカ

1870年頃に西アフリカで発見された「新種の」コーヒーノキは、1874年にW. Bullによって正式に記録され、1876年にHiernによってC. liberica命名された*2。この新種のコーヒーノキ、いわゆる「リベリカ」は、ジャワ島には1875年に持ち込まれた。

当初リベリカは、さび病耐性というよりも他の特徴、すなわち、ほぼ通年で開花・結実し、またジャワ島の多雨な低地にも適応した種であることで注目された。特に、ジャワ島西部の標高の低いエリアでは、1896年にはほとんどのアラビカがリベリカに置き換えられていたという記録が残っている。この頃には耐さび病性があることも知られるようになり、インドネシア各地に徐々にその栽培が広まっていった。

リベリカの豆は大型で見栄えがよく、当初はアラビカよりもやや高価に取引されていたらしい。その後もアラビカとほぼ同じ値段で取引されていたが、1898年にはリベリカの価格は大幅に下落した。また、その耐さび病性は不完全なものであることも明らかになっていった。既に1881年頃から、さび病変が表れたリベリカの木がいくつか見られるようになり、また後に蔓延した新型さび病には無効であった。20世紀に入る頃には大部分がさび病に見舞われ、リベリカの栽培は縮小していった。

ロブスタ

19世紀末、ガボンおよびコンゴで、もう一つの新種のコーヒーノキが発見された。C. canephora、いわゆる「ロブスタ」である*3インドネシアには1900年*4に導入されている。

ロブスタは耐さび病性に非常に優れていただけでなく、多雨な低地に適合し、生命力が旺盛で、高収量であった。このことがわかると、インドネシア、特にジャワ島の農民らはロブスタに切り換えていった。その結果、インドネシアは世界に先駆けた「ロブスタ栽培の開拓者(パイオニア)」になったのだと言える。

しかし、未知の領域を開拓する者には、未知のリスクが伴う。インドネシアも後に、その「リスク」によるしっぺがえしを受ける羽目になってしまった。ロブスタは耐病性や収量の面では優れていたものの、その品質は明らかにアラビカよりも低かったのだ。

この頃、既に「ジャワ」のアラビカは、イエメンの「モカ」に次ぐブランドとして確立されていた。19世紀中頃に導入された水洗式精製のアラビカは、その青緑色の概観から「ブルージャワコーヒー」(Blue Java Coffee) と呼ばれていた。しかしロブスタへの転作によって、かつてはモカに次ぐものであった、ジャワのブランドイメージは凋落の途を辿っていったのである。


一方、ロブスタはアラビカに比べて、カフェインやクロロゲン酸の含量が高く、極深煎りにすると、非常に強いコーヒーの苦味を生じる。この性質は、缶コーヒーやインスタントコーヒー、あるいは一部のブレンドコーヒーなどで、「値段の安い、増量剤」とするにはうってつけのものであった。このため、ジャワのブランドイメージは、やがて「ジャワ・ロブスタ」という名前と共に、低品質な「混ぜ物」用のコーヒーの代名詞へと変わっていったのである。

さらにもう一つ、コーヒー産地としてのインドネシアの凋落につながった理由に、日本も無関係ではなかったことにも触れておく必要があるだろう。


インドネシアはオランダ領東インドとして、オランダの実質的な統治下にあった。俗に「350年に及ぶ植民地支配」と呼ばれる。20世紀初頭には民族独立運動の気運も高まったが、反乱に対する弾圧から成功はしなかった。

第二次世界大戦時の1940年、オランダ本国はドイツに降伏。1942年には日本がオランダ領東インドに侵攻したことで、オランダによる植民地支配は瓦解し、1944年に日本軍政下でインドネシア独立宣言がなされた。しかし、オランダによる支配を逃れた一方で、インドネシアのコーヒー生産は、日本の敵国に廻ったアメリカやヨーロッパなど、それまで重要であった販路を(一時的にではあるが)断たれてしまうことになった。第二次世界大戦終戦後、独立宣言を無効とするオランダ本国との間で、インドネシア独立戦争を余儀なくされる。1949年に正式に独立を勝ち取ったものの、長い戦争により農地は荒れ、インドネシアのコーヒー栽培には大きな傷跡が残されたのである*5


なお、インドネシアには、この「三原種」以外のコーヒーノキも多数移入され、栽培されている。代表的なものとしては、

が挙げられる。

*1:■さび病パンデミックの衝撃 」参照

*2:命名前から、西アフリカで小規模に栽培が始まっており、1872年にイギリスのKewにそのサンプルが送られている。

*3:発見の経緯は、「■愛と野望のロブスタ 」参照。

*4:C. robustaとして同定されていたものが1900年に、C. canephoraが1902年に導入された。このため、文献ごとに記載の違いが見られるようだ。

*5:ただし、その一方で戦後のインドネシアのコーヒー栽培復興には、UCCキーコーヒーなど日本企業の努力もあったことも特筆しておきたい。

*6:カネフォーラの栽培品種。当時の学名はC. quillou

*7:リベリカ種のデウェブレイ変種C. liberica var. dewevrei。当時の学名はC. excelsa