大学一年生のためのニクラス・ルーマン理論入門

というのを書いているのだが(なぜ)、まぁ「伝えたいこと」なんてないわけですけども、ともかくも ちょっと書いてみたところまでアップしておきますよ。

だいたい俺、学生時代から、社会学科に進学する/したような奴とは折り合い悪かったしな。

なお、このネタについては

も参照のこと。

ところで、あらためて「ルーマン理論の全体像」を振り返ってみて思うのは、どんな提案をしているのかまではわかっても、その帰結が何かというのがわからないことがたいへん多い、ということ。
これは俺のせいじゃない。半分はルーマン自身が悪く、あとの半分は要するに、研究がちっとも進んでいないということによる。研究者のみなさんには頑張っていただきたいものであります。(←ひとごと


まぁいちおう、書いたところまでアップしておく。続きはいつか書くかもしれない。

この文書の目的

  • この文書は、ルーマンの30年にわたる研究成果を前にして、どこから手を着けてよいかわからない人のためのガイドとして書かれる。
具体的には、次の二点(1-1、1-2)を記す:
  • 1-1 30年の研究経歴上、維持され続けた基本的主張はどんなものか。
  • 1-2 それ↑は、学的反省──「社会学は、何について・どのように研究を進めるべきなのか」という問い──にどのように関わるか。
  • 1-1、1-2 を示すことによって、初学者が次の方針↓でテクストに望むことができるようになること。これが本ガイドの課題である:
    ルーマンによる社会学に対する様々な提案、理論の基本的な構図およびその変更(ex.オートポイエティック・ターン)、個々の諸研究などなどを、
    「基本的な準拠課題への解答ヴァリエーションとして捉えることができるようになること。
それができるということは、
  • 首尾一貫した態度でルーマンのテクストに臨むことができ、
  • それを批判的に検討することができ、
  • ルーマンの案に対する代替案を模索検討することもできる、──ということでもある。

ただし、あらかじめ次のことを断っておかなければならない。
ルーマンについては、「どんな提案をしたか」は(おおよそ)わかっても、その理由や帰結が見えないことが非常に多い というのが研究の現状であり、したがって基本的な論点について研究者間ですら意見の一致が見られないことが多い。それらについては今後の研究の進展をまつしかない。

社会的システム

  • 「社会的システム」とは、行為(or コミュニケーション)からなる自律した社会秩序のことを指す。
「社会的システム論」の主導的な区別は〈社会秩序の自律性に与るもの/それ以外のもの〉(=〈システム/環境〉)である。
  • したがって、「社会システム論」は次の二つの側面を持つ:
    • 1)「自律性」の含意を概念的にあきらかにすること。
    • 2)現実存在する様々な「自律的な社会的諸秩序」を見つけ出し、それぞれについて分析すること。

以上の点は、「オートポイエティック・ターン」以前・以後で変更はない。また、

  • 「社会的システム」概念の内実が、〈システム構造/システム要素〉という概念ペアによって規定されている

ことにも変更はない。したがって読者は、まずはこの二つの区別(〈システム/環境〉、〈システム構造/システム要素〉)を 最初の手がかりとすることができる。
さらに上記の事情により、

  • ルーマンの ほぼすべての議論は、おのずと 次の二つの焦点を持つことになる:
    • 「自律性」をどのように(概念的に)定式化するか*
    • 具体的な・実際の自律的対象をどのように把捉するか**

したがって、読者の側でも以上のポイントをたよりに、テクストとつきあっていけばよい。これが本ガイドにおけるもっとも重要な主張である。

* 言い換えると、「自律性」概念がどのように把握・敷衍されるかによって、理論内容は大きく変わる。
いわゆる「オートポイエーシス的展開」なるものも、あくまで この観点から検討されるべきものである。
** 私見では、「社会学に対するルーマンの貢献」が いまだに曖昧模糊としており、経験的研究にほとんど貢献していないようにみえる理由はここにある。つまり「実際のところ、自律性を どのようにして把握するのか」という点についての吟味が進んでいない、
それどころか、現在のルーマニ屋において、この基本的な問題が 問われるべき重要な問題 として扱われているのかどうかすらが怪しい
ということ。

社会学に対する提案

「社会的システムの記述」という課題

まず、「「社会的システム」を分析対象とせよ」という方針は、社会学に対するどのような批判・提案と結びついているかをアトランダムに述べる。

学説史的には、これはアドルノやウィンチによる、特に第二次大戦後の合衆国を震源とする実証主義偏重傾向への反省と比較検討されるべき論点であろうと思われる]

実証主義的知見が積み上げられていくことは重要なことであるが、問われるのは「そこで何が問題になっているのか」ということである。たとえば、60年代末の代表的著作『法社会学』の冒頭では次のように問われる:

法現象を「社会学的に」扱おうとする者は、しばしば出自階層の司法判断への影響や専門職研究などを行う。そこで経験的知識を積み上げるのは結構なことだが、それ自体は「法秩序の研究」とは呼べない*。(大意)

→この場合であれば、上記方針は、「「法秩序の自律性を捉えること」が法社会学の真の課題だ」という提案になる。

この著作(〜初期ルーマン)の場合、課題は「構造を持った複雑性」という概念のもとで 提示され・展開されている。
* このあたりは「シルズの不満」と比較検討すべき論点のように思われる。

一元主義*的議論への批判

  •  
  •  
ex. 『制度としての基本権』 (政治主義的な「社会秩序」理解に抗して、社会分化に対する「基本権」の貢献を明らかにする。)
ex. 『社会の法』序文(「法と経済学」的アプローチへの批判)
* これはルーマン自身の表現ではない。
「システム研究/ゼマンティク研究」という研究プログラム・ペア

次に、ウェーバーの「行為」概念に対する変更提案に関わる論点いくつかを述べる。

  • 「行為論・知識社会学」→〈システム研究/ゼマンティク研究〉
  • 「行動・行為」→〈体験/行為〉

ウェーバーにおいては、「行為」は──「思念された意味」を目印にして──「行動」から区別されていた。これに対して──『論争』におけるハバーマスへの返答の中で──ルーマンはおよそ次のように述べる(以下大意):

「行為」概念を「思念された意味」をテコに「行動」概念から区別するやり方では、「知識」が、課題設定の端緒において議論から弾き飛ばされてしまう。
→その結果、研究方針としては、

  • “まず”「行為論」(or 社会システム論)と「知識社会学」を別々にたて、
  • “次に”「それをどう架橋するか」という仕方で議論が組み立てられることになる。

が、このやり方には望みがない。

  • 「行為論」と「知識(or文化)社会学」という 二つの並立する研究領域は、(知識が行為に対して構成的に関わっていることを踏まえて)次の研究プログラム・ペアに取り替えられるべきである*:
    • システム研究: 行為あるいはコミュニケーションからなる社会秩序の研究
    • ゼマンティク研究: 行為(or コミュニケーション) -において用いられる/にとって構成的な- 観念・ボキャブラリ資源に関する研究

この、研究のグランドデザインは、特に80年代から二つのシリーズ著作の形ではっきりしてくる。

* ルーマンの議論にしたがってこのように書いたが、「知識」と〈行為/体験〉との関わり──および、〈行為/体験〉と〈システム/ゼマンティク〉との関わり──は およそ判明ではない。この点についても研究が待たれるところである。
「行為の合理性」→「システム合理性」
  • ウェーバーにおいては、「個別の行為」に関して「合理性」が云々されていた(目的合理性/価値合理性)。ルーマンはこれを、コミュニケーション(=システム)の水準に移し変えるよう提案する。[『目的概念とシステム合理性』]

 「合理性」は──これは「変わらなかった」点にあたるのだが──、システム評価のためのコア概念であり、したがってまた「社会学的啓蒙」プロジェクトの中心的な概念の一つでもある。ところが、残念ながら(そして驚くべきことに)この点に関する研究は進んでおらず、上記変更提案の帰結は見通せないままになっている。今後の研究の進展に期待したい。

社会学的啓蒙

(未完)

お勧め本リスト

「自律性」概念の敷衍:
個別の自律的対象の分析:
「自律性は如何にして達成されるのか」についての例示:

もう一つ、「道徳の社会学」を挙げたいところだが、残念ながら翻訳がない。

※「小著」のほうが「大著」より組し易そうに見えるのは人の性というものだが、結局それは回り道である。目下の翻訳状況では、『制度としての基本権』か『社会の法』に頑張って取り組んでみたほうが、結局はトータルコストは低いのではないかと思う。

宮下『センゴク』15

どう考えても漫画読んでる場合じゃありません。

センゴク(15) (ヤンマガKCスペシャル)

センゴク(15) (ヤンマガKCスペシャル)

クロサギ 16 (ヤングサンデーコミックス)

クロサギ 16 (ヤングサンデーコミックス)

柏端『行為と出来事の存在論』

行為と出来事の存在論―デイヴィドソン的視点から

行為と出来事の存在論―デイヴィドソン的視点から

  1. 出来事という存在者──デイヴィッドソニアンの視点から
  2. 行為の存在論──アンスコムの同一性テーゼ
  3. 論理形式と統語論
  4. 「対象」と「主体」
  5. 行為の他動性
  6. 因果的に解釈可能な「〜によって」関係
  7. 行為の終わりと物語的遡及性
  8. 行為の始まりと身体の基礎性
  9. 行為と道具
  10. 非因果的な「〜によって」関係

ウィンチ『社会科学の理念』

再読して思ったが、やっぱりこの本はどうも好きになれないなぁ。議論のほとんどに賛成できるのに、それでも教条主義的な感じがしてしまうのはどうしてだろう。

実証主義の時代」の只中で・四面楚歌状況で書かれたから、なのだろうか。
でも、それなら初期ルーマンの議論だって同じなんだよな。でもルーマンの議論からは、こういう↓臭みは感じられない。
と書いてみて気がついたが、この臭みはアドルノのにちょっと似てるかもね!
社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究

社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究

The Idea of a Social Science and Its Relation to Philosophy (Routledge Classics)

The Idea of a Social Science and Its Relation to Philosophy (Routledge Classics)

ISBN:0415054311

さすがにこれは Google/Questia ともに置いてある:


■第二版への前書き:「説明」は「理解」の唯一の道ではありません。

The central core of the argument is really stated in Chapter III, Sections 5 and 6. The title of Section 6 is ‘Understanding Social Institutions’. It is important that I use the word ‘understanding’ at this crucial juncture rather than ‘explaining’. In saying this I do not mean now to allude to the distinction made by Max Weber between ‘causal explanation’ and ‘interpretive understanding’ (discussed in Chapter IV, Section 3). The point I have in mind is a rather different one. Methodologists and philosophers of science commonly approach their subject by asking what is the character of the explanations offered in the science under consideration. Now of course explanations are closely connected with understanding. Understanding is the goal of explanation and the end-product of successful explanation. But of course it does not follow that there is understanding only where there has been explanation; neither is this in fact true. I expect everyone would accept this. [p.x]



科学、芸術、宗教および哲学はすべて事物を 理解可能intelligible にすることに携わっている、と述べることは、フットボール、チェス、ペイシェンス、縄跳びはすべてゲームである、と述べることとまったく同様に意味がある。だがこれらの活動はすべて(我々がもっと利巧ならば理解できるはずの)一つの「超ゲーム」に含まれる、と述べることがばかげているように、それらの研究活動の結果を集めれば、現実についての一つの包括理論になるなどと考えることは馬鹿げたことなのである。[p.24]



ポパー主義について

まぁあたりまえのこと言ってますが...

 人間はその行為を通じて、命題が相互にもつ関係とまったく同種の関係を多大に対して持つことができる、という考えに抵抗を感じる人がいるとすれば、おそらくその理由は、彼が命題間の論理的関係について誤った考えをもっていることにある。彼は、論理の法則とは何か 既定の 固定した構造をもつものであり、我々は現実の言語活動や社会的交渉において我々が述べることをそれに一致させるべく──その結果多少の(決して完全にではない)成功を収めるが──努めているのだと考えているのである。[..] 社会関係は命題間の論理的関係のようなものであるということは、命題間の論理的関係自体が人々の社会関係に依存していることを理解するなら、さほど奇妙なことではないはずである。
 私がこれまで述べてきたことは、もちろん、カール・ポパーの「方法論的個人主義公準」と対立するものであるし、またそれは、彼が「方法論的本質主義」と呼ぶ過ちを犯しているようにも見える。ポパーは、社会科学の理論とは、ある種の経験を説明するために研究者が構成した理論的構成物──つまりモデル──に対してあてはまるものである と主張し、この方法を、彼ははっきりと自然科学における理論的モデルの構成になぞらえているのである。

 モデルがこのように[誤って]使用されていることは、方法論的本質主義の主張を説明すると同時に、それを無効にしてしまう...... 説明するというのは、モデルが抽象的理論的性格のものであることから、我々は観察可能な変化するもろもろの事象の内に、またはその背後に、モデルを一種の幽霊、つまり本質、として見ているように思いがちだからであり、また無効にしてしまうという意味は、我々の任務とは、社会学的モデルを記述的あるいは唯名論的方法で、すなわち、個々人に即した 彼らの態度、期待、関係等の見地から、注意深く分析することにあるからである。この公準を「方法論的個人主義」と呼ぶことができよう。[『歴史主義の貧困―社会科学の方法と実践』]

 社会制度とは社会科学者がその研究に役立てるべく構成した説明のためのモデルに過ぎない、というポパーの言明は、あきらかに誤っている。諸々の制度が内包している思考様式は、社会科学者が研究している諸々の社会において、実際に人々の行動様式を支配しているのである。たとえば、ポパーがあげた一例である戦争という観念は、ただ単に複数の社会の武力闘争という事実を 説明 するために発明されたものではない。それは、互いに構想している社会のメンバーに、彼らがとるべき行動の基準を与えている観念なのである。私の国が戦争しているならば、私がしなければならない──または、してはならない──しかるべき事々が存在する。いうなれば私の行動は、私が交戦国のメンバーとしての自分についてもつ概念に支配されているのである。戦争という概念は 本質的に 私の行動に属している。だが、重力という概念は落下するりんごの運動にこれと同じ仕方で属しているわけではない。それはむしろ、りんごの運動についての物理学者の 説明 に属しているのである。これを理解することは──ポパーには悪いが──現象の背後に幽霊の存在を信じることとは何の関係もない。それどころか、個々人の態度や期待や関係に入り込んでいる諸々の概念を考えることなくこれらの態度等々を正しく理解することはできないし、またこれら態度等々の意味は、いかなる個人の行為によっても決して説明されるものではないのである。[p.154-157]

そういえば、キング・カズって絵に描いたように見事なポペリアンですな。立派です。

まぁ ウィンチのこうした↑批判に対して(まで)ならば、〈一次理論/二次理論〉という区別でもって一応対応ができそうですが。

とはいえ、それじゃ足りないから「理念的実在」のような奇怪な観念が要請されもしたのでしょうが。