Hatena::ブログ(Diary)

老兵は黙って去りゆくのみ

2016-05-25

じじぃの「21世紀の優生学・劣悪な遺伝子を一掃してしまえ?人類滅亡ハンドブック」

06:09

IQの高い国ランキングwikimedia より)

日本は3位。IQが高い国ベスト10 2015年05月28日 カラパイア

エレクトロニクステクノロジーで知られる日本であるがゆえに、日本人が世界第3位の高IQの持ち主であっても驚くには値しないだろう。東京大学アジア最高の大学と誉れが高く、世界でもトップ25の実力を持つ。さらに日本は99パーセントの識字率を誇っている。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/52192998.html

『人類滅亡ハンドブック』 アローク・ジャー/著、長東竜二/訳 Discover21 2015年発行

劣性学 (一部抜粋しています)

1970年代に、「劣性学」、すなわち劣悪な遺伝子がヒトの間に広がっているという考えを最初に提唱したのは、ノーベル賞に輝いたアメリカ物理学者、ウィリアム・ショックリーだった。

アメリカの兵士を対象とするIQテストのデータを用いた彼の主張は、黒人は遺伝的に白人に劣り、人種が入り交じった人びとの知性は、祖先にどれだけ「白人の血」が入っているかによって変化する、というものだった。

結論としてショックリーは、IQの低い人々は自発的不妊手術を受け、自分たちの遺伝子を新世代の子どもたちには伝えないようにするべきだ、と訴えた。

この考えは、今日の基準からすると、どう見てもうさんくさいものだろう。けれども、望ましくない遺伝子が蔓延すると、人類の進歩が妨げられると考えていたのは、ショックリーだけではなかった。

自然淘汰の理論を、チャールズ・ダーウインと共同で編み出した生物学者のアルフレッド・ラッセルウォーレスによると、偉大なるダーウインですらヒトの運命を悲観していたという。

「ダーウインと交わした最後の会話の1つで、彼は、自然淘汰がわれわれの近代文明に手を出せず、適者だけが生存するわけではないことを理由に、人類の運命について、非常に暗い見通しを立てていた」とウォーレスは書いている。

「よく知られているように、われわれの人口は世代ごとに、中流、上流の階級よりも、下流の階級によって大きく刷新されている。これは決してありがたい話ではない」

20世紀の初頭は、フランシス・ギャルトンが創設した「優生学」という運動を科学者たちや各国の政府が、なんとか正当化しようとした時代として記憶されるだろう。これは、知性や気性、道徳など、あらゆるものにおける有害な遺伝形質を除外することで、人類を「改善」しようとする運動だった。

     ・

1910年ごろ、アメリカ優生学者にとっては、「知的障がい」が非常に重要な概念となった。それは、異常行動、乱交、犯罪性、および社会への依存と結びつけられた。優生学ロビー活動の影響力は、監獄の医師、ハリー・クレイ・シャープのアドバイスによって、1907年にインディアナ州で成立した最初の優生保護法に見て取ることができる。

米国医師会集会スピーチをしたシャープは、仲間の医師たちに、性犯罪者、常習的犯罪者、てんかん患者、知的障がいなど『遺伝性の欠陥品』の非自発的不妊化を許可する法律の施行を自分たちの地方議会に訴えた」とミクロス=カールソンは書いている。

「その狙いは、劣悪とされる人々がお互いと交配したり、正常な人々と生殖して『遺伝子ストック』を汚染したりするのを防ぐことだった」

優生学のイメージ回復を目指す、フューチャー・ジェネレーションズという組織を運営するマリアン・ヴァン・コートは、知性面における劣性の問題を、次のように説明する。「IQは、数多くの望ましい特質(たとえば利他主義、反権威的態度、勤勉さ、倹約、そして犠牲を重んじる中産階級的な価値観)との正の相関があります。ですから、IQが低下すると、そうした特質も損なわれてしまうのです」と彼女はいう。

IQの低い人たちは、犯罪者になる可能性がはるかに高くなっています。ですから、知性に対する私たちの遺伝的潜在能力が低下していることは、犯罪に対する遺伝的潜在能力が高まっていることを意味するのです。

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どうでもいい、じじぃの日記。

『人類滅亡ハンドブック』という本を読んでいたら、「劣性学」というのがあった。

劣性学や優生学という言葉からは、第二次世界大戦ナチス・ドイツが行ったユダヤ人絶滅計画を思い浮かべる。

IQは、数多くの望ましい特質(たとえば利他主義、反権威的態度、勤勉さ、倹約、そして犠牲を重んじる中産階級的な価値観)との正の相関があります」

どうもIQと、人間の望ましい特質は比例関係にあるらしい。

ネットで「優生学 IQ」をキーにして検索してみた。

アインシュタインモーツァルトIQ偏差値の高い人物として出てきた。

IQだけを見れば、IQの高い有名人はたくさんいるのだろうが、人は、知能の中に人格という要素を求めているみたいだ。

現代において、優生学の概念はiPS細胞を使った再生医療などの進歩で変わろうとしている。

じじぃの「人の死にざま_1683_横井・庄一(陸軍軍人・グアム島)」

06:04

【戦争伝説】「横井庄一」グアムで28年間まだ戦争だと思っていた伝説の日本兵 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=Q4vjv-u2ALw

横井庄一

ジャングルで28年サバイバル生活「横井庄一記念館」【愛知 日本珍スポット100景

横井庄一(1915〜1997)氏とはどんな方か?

彼は元伍長の日本兵太平洋戦争で召集され1944年からグアム島に配属。しかし1945年の敗戦も無条件降伏も知らされず、28年間もの長きにわたってジャングルの中でサバイバル生活を続けたという驚きの人です。

http://bqspot.com/tokai/aichi/372

『20世紀を一緒に歩いてみないか』 村上義雄/著 岩波ジュニア新書 2001年発行

横井さんと小野田さん (一部抜粋しています)

第一報が社会部デスクに入ってきたとき、突然、時計の針が逆に周りはじめたような錯覚に襲われた。1972(昭和47)年1月24日、グアム島の密林で元日本兵、横井庄一さんが見つかったときの話である。グアムはすでに日本人の観光客でにぎわう人気抜群のリゾート地になっていた。たしかに太平yプ戦争のときの激戦地。たくさんの悲劇を生んだ島にはちがいない。だが、戦後、4分の1世紀を越える年月がたっている。海辺でビキニの水着姿がたわむれる光景と戦争がなかなか結びつかなかった。

横井さんを見つけたのは現地の住民2人。タロホホ川という名の川へ魚を捕りに行ったとき、エビをとっている年輩の男を発見、少し取っ組み合いになったらしいが、すぐおとなしくなり、たずねると元日本兵だと打ち明けた。警察が保護し、事情を聞くと愛知県の実家の住所や名前を素直に話した。愛知県富田村(現在の名古屋市中川区)出身の旧日本軍陸軍軍曹、横井庄一さんであることが確認された。

グアム島も密林で昼間は穴倉に潜み、夜は魚を捕り、木の実を食べて生きた28年だった。戦争に行く前は洋服の仕立て職人をしていた。その知恵と技術を活かし、木の葉の繊維を編んで着るものを作った。”住まい”の穴は竹や葉っぱで覆い、見つかりにくくしてあった。実は石と石をたたいて出る火花を利用した。

戦争が終ったのは、うすうす気がついていたらしい。しかし、人のいるところへ出ていくと殺されるのではないかと心配で「閉じこもり」をつづけた。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受くるなかれ」(捕虜になるなら死を選べ)と教えこんだ日本軍の「戦陣訓」(いわば軍人の教典)が頭から離れなかった。

横井さんはグアムの病院で静養したあと、2月2日、羽田空港帰国した。帰国第一声は、

「私、横井庄一、恥ずかしながら、生きて帰ってまいりました」

だった。「恥ずかしながら」が当時の流行語になる。その年の12月に結婚、繁栄の道を突っ走っていた日本人に向かって「耐乏生活評論家」として「節約」をよびかけつづけ、1997(平成9)年9月22日、心筋梗塞で亡くなった。82歳だった。

2016-05-24

じじぃの「中国の反日・トラウマの深層・屈辱の日清戦争の敗北にあった!習近平の言い分」

06:08

中国海軍征兵宣伝【釣魚島を奪還せよ!】 2015  動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=1Z8_KRMdbbs

第一、二列島戦

“トランプ大統領”誕生翌日、中国武装兵士の尖閣上陸もありうる 2016.05.10 ZAKZAK

平たく言うと、トランプ=米国は日本、韓国フィリピンなど東アジア地域から部分的に撤退し、中国がその間隙を突いて朝鮮半島南シナ海で“好き放題”やるということだ。大統領就任式は来年1月20日である。極論すると、中国はその翌日、沖縄県尖閣諸島に武装兵士を上陸させる。

http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20160510/plt1605101140002-n1.htm

中国日清戦争敗北のトラウマ!だから謝罪しないロックオン大気汚染 2013年2月12日 J-CASTテレビウォッチ

北京市の空を覆う大気汚染については「日本は原子力発電をやめて石炭による発電に変えた。これが中国の環境に影響を与えている」(5日付チャイナネット)と主張し始めた。

中国はなぜ謝らないのか。対外的に謝罪したのは、120年ほど前の日清戦争が終結した下関条約(1895年4月17日締結)に遡るという。このとき、賠償金と遼東半島台湾などを日本に割譲し謝罪した。これをきっかけに、イギリスフランスドイツロシアなどの欧州列強に次々侵略され、時の西太后が領土を割譲していった屈辱がいまも残り、家庭ではこのときの歴史を教訓として、「大事なことは譲ったり引いてはいけない」と教えているという。

小倉キャスター、「日本は対中関係をうまく築いていくのは難しいですかね」

宮家、「日本に安易に謝ると弱腰と国内で非難される微妙な関係で、物事を解決することが難しくなっています。120年前からの屈辱のトラウマが克服されないと、こういう問題は続くと思いますね」

http://www.j-cast.com/tv/2013/02/12164820.html?p=all

マスコミより確かな 習近平の言い分』 孔健/著 三五館 2015年発行

習近平、「世界制覇」のシナリオ 日清戦争から学び現代に活かす研究が進む (一部抜粋しています)

前近代的な戦争の例は遠く日清戦争に見ることができる。中国では新聞や雑誌に躍る「甲午戦争(日清戦争)」という文字を目にする。とくに2014年は「甲午戦争120周年」を迎えるからだ。日清戦争中国人にとって日中戦争大東亜戦争)とともに日本の侵略戦争として、振り返ればそこにある記憶なのである。身近な記憶であるため、風化する前に記録し今後に役立てようと日清戦争の研究がなされている。

     ・

人民日報」が出版している「文史参考」という雑誌のネットの分析は次のようだ。

「『甲午戦争』敗戦後、中国は世界から『眠れる獅子』と恐れられられていた大国の面目を失った。反対に小国日本は一躍世界中の注目を浴びた。中国は、1895年4月の日清講和条約(「馬関条約)、通称日本名下関条約」)によって、日本に遼東半島台湾澎湖諸島などを割譲し、朝鮮国を独立自主の国として認め、賠償金として銀2億両を支払うこととなった。しかし当時の、フランスドイツ帝国ロシア帝国による、いわゆる三国干渉によって日本は遼東半島放棄させられ、その代わり中国は還付報奨金として銀3000両を追加して支払った。

日本は、それらの金の84%を戦費と軍拡に使い、戦後中日軍事力は逆転した。日本はアジア一の軍事強国となり帝国主義の道を進むこととなった」

結局、中国が日本に支払った金額は、軍費賠償金、銀2億両、威海衛守備費焼却金(3ヵ年分)、銀150万両、遼東半島還付報奨金として銀3000両、合計・銀2億3150万両になった。合計金額は』ポンドになおすと3500万ポンド、日本円にして3億5000万円という、当時としては途方もない金額になった。そのとき清国は銀本位制だったため銀2億3150万両に相当する額のポンド金貨を、英独仏露といった国から借金して日本に支払っている。

中国は、日清戦争後日本は軍国主義の道を選び、侵略拡張政策をとり、右翼勢力が増長した、という3つの要素が三位一体となって軍国政治が行われ、植民文化を形成した」

と分析している。日本が軍国主義の道を歩みはじめたのは中国からの賠償金がそれを可能にしていたのだ。

中国は、日清戦争後の日本緒変化を次のように総括し、現代に生かそうとしている。

一、日本は軍国主義侵略拡張の道を開いた。

二、日本軍国主義中国侵略の歴史を作った。

三、日本人の戦争を好む雰囲気を作った。

現在中国では、日清戦争120周年と尖閣などの問題が重なり、「日本なにするものぞ、いざ戦わん」というメディアの論調が日常に溢れている。そうした空気に反応し、ネット・メディアでも多角的な企画を行なっている。「文史参考」のネットには「日清戦争」を分析し、「われわれはあのときと同じ轍は二度と踏まない」と歴史の教訓を総括している。

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じじぃの日記。

5/22、BS朝日 「いま世界は」を観た。

中国でトランプ大統領待望論?

アメリカ世論調査によると、共和党ドナルド・トランプ大統領が誕生する確率は50%になった。

トランプ氏、「日本や韓国はもっとカネを払わなければいけない。米国は守り続けることはできない」

トランプ氏の考えは、いっそのこと米軍はグアムまで後退し日本防衛の必要なし、ということらしい。

中国にとって、在日米軍撤退は大歓迎なのだという。

「現在中国では、日清戦争120周年と尖閣などの問題が重なり、『日本なにするものぞ、いざ戦わん』というメディアの論調が日常に溢れている」

中国反日、釣魚島(日本名尖閣諸島)奪還せよ、の深層には、屈辱の日清戦争敗北のトラウマがあると言われている。

じじぃの「人の生きざま_643_ジェーン・グドール(霊長類学者)」

06:05

ジェーン・グドール: 類人猿とヒトを分かつもの 動画 TED

https://www.ted.com/talks/jane_goodall_on_what_separates_us_from_the_apes?language=ja

ジェーン・グドール

ジェーン・グドール博士について JGI-J

ジェーン・グドールは1934年イギリスロンドンで生まれました。

ジェーンは小さな頃から動物が好きで,よく裏庭で鳥やリスを日が暮れるまでじっと観察している少女でした。また,ターザンドリトル先生の本を読んでは,動物に囲まれて暮らすのを夢見ていました。

http://www.jgi-japan.info/ja/1/page-0.html

『平和をつくった世界の 20人』 ジュニア新書編集部 岩波ジュニア新書 2009年発行

ジェーン・グドール 人間らしさを理解すること (一部抜粋しています)

1934年ヴァレリー・ジェーン・モリス=グドールはイギリスロンドンに生まれました。両親は、幼い娘が自然や動物のとりこになっていることに気がつきました。成長したグドールは、庭を散策したり、飼い犬と遊んだり、お気に入りの木に登って冒険物語を読みふけったりすることを好むようになりました。そしてターザン・シリーズを全巻集めて、いつの日かアフリカに渡り、動物を研究して本にまとめることを夢見るようになりました。

      ・

アフリカで、グドールは文化人類学者のルイス・リーキー博士に出会いました。博士は彼女を秘書として雇い、ついに野性チンパンジーの研究の未知へと誘いました。彼女は科学者ではありませんでしたが、彼女が備える天性の好奇心と忍耐力こそが、まさに野性チンパンジーの研究に必要なものであると、リーキー博士は考えたのです。彼女はわくわくしながら、チンパンジーについて手に入るあらゆる資料を読みあさり、その間リーキー博士は研究プロジェクトに対する助成金を探しました。資金が得られるやいなや26歳のグドールは、現在タンザニアゴンベストリーム国立公園となっている場所に出かけ、大型類人猿を探して森へと入って行ったのです。

グドールはすぐに、科学の研究において当然とされているきまりを破りました。調査対象に、番号の代わりに名前を付けたのです。彼女は冷静に客観的でいる代わりに、調査対象に対して共感をもって接しました。16ヵ月近く熱心に観察して、1961年、ついに科学の常識をくつがえすことを目撃しました。

それまでは、道具を作ったり使ったりするのは、人間だけであると考えられてきました。しかし、ディヴィット老人とゴリアテと名付けた2匹のチンパンジーが、植物の茎から葉をむしりとって、残った茎をシロアリ塚に挿して、茎を上ってくるシロアリを食べている姿を、彼女は目にしたのです。チンパンジーは道具を作り、それを使うことができたのです。

チンパンジーが灯具を使うのを目撃したのは私が最初ではありません。たくさんのアフリカ人たちが、その様子をすでに見ています。でもそれを報告した最初の科学者が私だったのです」とグドールは言っています。科学の世界を震撼させたグドールの発見は、人間と動物を隔てる境界線をあいまいにしました。そして科学者は、道具とは何か、人間とは何かということに再定義するか、チンパンジーを人間として見なすかを迫られたのです。この発見によって、特に米国地理学協会から、研究をさらに続けていくための資金が提供されることになりました。その一方で、彼女は野生動物の行動を研究する動物行動学という分野で、ケンブリッジ大学から博士号を授与されました。

      ・

仕事にもどり、グドールは何十年にも及ぶ研究を『野生チンパンジーの世界』という1冊の本にまとめました。イリノイ州シカゴで開かれた学会で、本の出版を祝っているときに、彼女はゴンベ以外に住むチンパンジーが直面する危機について知ったのです。世界中でチンパンジーがむごい実験に使用され苦しんでいること、食用として狩られたり、生け捕りにされて売られたりしていること、さらに驚くべき早さでチンパンジーの居住区が破壊されていることを知り、彼女は衝撃を受けました。すぐに愛すべきチンパンジーを救うため、世界的なキャンペーンを始めました。「1986年10月のあの学会以降、私は1つの場所に3週間といたことはありません」と彼女は語っています。

聞いた話がほんとうかどうかを確かめるためにグドールは自らチンパンジーで実験を行っている実験室を回りました。チンパンジーと人間のDNAは、1パーセント強しか違いません。チンパンジーに細菌が感染しないようマスクして、彼女はコンクリートと鉄でできた窓の無い部屋に入っていきました。そこで、施設にいる約300匹のチンパンジーの中で、ジョジョという名の1匹のオスのチンパンジーに会いました。

野生から連れ去られ、ジョジョは幅と奥行き1.5メートル、高さ2.1メートルの檻(おり)に入れられ、そのからだは製薬会社が行なう薬とワクチンの検査に貸し出されていました。ジョジョはこんなふうにして10年間も生きてきたのです。その10年で、とほうもなく退屈な生活が途切れるのは、恐怖と痛みによってのみであったことが、グドールにはわかりました。

檻の前でゆっくりとひざまずき、グドールはジョジョ茶色い目をのぞき込んで、「ジョジョは何1つ悪いことをしていないのに、一生囚(とら)われの身なのだ。自分が人間であることが恥ずかしい」と思ったのを覚えていると言っています。彼女は「ジョジョはゆっくりと檻の間から手をのばして、マスクへと涙が流れ落ちている私の頬に触れました」と語りました。

その時以来、グドールは、化粧品や家庭用品の開発における動物実験の廃止、医学実験に使用される動物の削減、組織培養法やコンピューターを使ってのシミュレーションならびに試験管を使っての実験など、動物実験に代わる実験方法の開発などを呼びかけています。批判的な人々が反対したとき、彼女は、彼女の母親の命を救うために、医者が豚の心臓弁を母の心臓に移植した話を語りました。その便は食肉用に殺された豚から取られたものでしたが、その治療法は実験室の他の豚を使って開発されたものでした。母を救ってくれたことについてグドールは移植と実験で使われた豚に心から感謝するとともに、実験室と農場で、その部たち同じ境遇にある動物たちの状況を改善するためにできるだけのことをしたい、将来的には、これ以上、こうした目的で動物が使われることがないように、動物実験以外の選択肢を支持していきたい、と語りました。

2016-05-23

じじぃの「自由を求めてアメリカへやってきた移民たち!自由の女神像に隠された謎」

06:05

地球ドラマチック「あなたの知らない“自由の女神”〜隠された謎に迫る〜」 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=N5tkqEDphkE

Statue of Liberty & Ellis Island - 2 minute HD tour 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=42yO2FUWL6A

アメリカへやってきた移民たち

地球ドラマチック 「あなたの知らない“自由の女神”〜隠された謎に迫る〜」 2016年5月21日 NHK Eテレ より

【語り】渡辺徹

ニューヨークにそびえ立つ自由の女神像

アメリカが誇る世界遺産です。

アメリカ沿岸警備隊員、「(女神像を)命に代えても守りますよ」

    ・

よく自由の女神像移民たちをアメリカへ迎え入れるために建てられたという話を耳にしますが、実際はそうではありません。

それでは移民を迎え入れるために造られたという説はどこから出てきたのでしょうか。

詩人エマ・ラザラス(1849〜1887)が、1883年に発表した『新たなる巨像』という詩に有名な一節があります。

 疲れ果て

 貧しさにあえぎ

 自由の息吹を求める民衆を

 我にゆだねよ

これぞ、自由の女神理念にふさわしいと人々は言い始めました。

当時、膨大な数の移民が続々とアメリカへやってきました。

彼らは船で到着したので、港の入り口に立つ自由の女神の力強いイメージは一層際立ちました。

こうして女神は移民を迎え入れる存在となり、新たな意味が加わったのです。

現在、エマ・ラザラスの詩はブロンズのプレートに刻まれて台座に飾られています。

今では、プレートがそこにあるのは当然のことと思われていますが、当初の計画には含まれていませんでした。女神像完成の20年後に取り付けられたのです。

自由の女神は、生みの親バルトルディが想像すらしなかった形で自由のシンボルとなっていきました。

http://www4.nhk.or.jp/dramatic/x/2016-05-29/31/11706/2340437/

アメリカ人のまっかなホント』  ステファニー・フォール/著、/中野恵津子/訳 マクミラン・ランゲージハウス 1999年発行

アメリカ気質 より

アメリカは自分が世界一いい国だと思っている。どこの国もそう思っているものだが、ほかの国と違って、アメリカには証拠がある。地球上のいたるところから、人々は大きな犠牲を払って、ときには命を賭してまでも、アメリカにやってくるではないか。これ以上の証拠が必要だろうか?

アメリカ人にとってナンバー・ワンになることはとても重要だ。アメリカでは、いかに闘うかは問題ではない。実を言うと、勝つか負けるかということすら、それほど重要ではないのだ。重要なのは、勝者に見えるか負けたように見えるか、もっとはっきり言えば、勝者に見えることなのだ。

アメリカ人は勝つことを常に意識している。アメリカン・フットボールの監督だったヴィンス・ロンバルディは、「勝てばいいのではない。勝つしかないのだ」と言った。大学卒業から結婚、車の購入にいたるまで、アメリカ人の人生におけるほとんどの全イベントが、誰かが勝者となるように、少なくとも誰かがほかよりかっこよく見えるようになっている。

それだけではなく、アメリカ人は、ほんとうに勝つ能力のあるのは自分たちだけだと思っている。その証拠に、いつも土壇場になってどこかの後進国を泥沼から救ってくれと助けを求められるではないか。戦いに際して、神が味方をしてくれれば安心なのはいうまでもない。アメリカが味方してくれればなお心強い。アメリカ人にとってその2つは同じことなのだ。

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どうでもいい、じじぃの日記。

5/21、NHK Eテレ 地球ドラマチック 「あなたの知らない“自由の女神”〜隠された謎に迫る〜」を観た。

「よく自由の女神像移民たちをアメリカへ迎え入れるために建てられたという話を耳にしますが、実際はそうではありません」

アメリカニューヨーク港内のリバティー島にある自由の女神像は、フランス民衆の募金をもとにして、フランスの彫刻家のフレデリック・オーギュスト・バルトルディが像を設計し、橋梁技師のギュスターヴ・エッフェルが構造を設計して、1886年に完成した。

像が完成した当時、船に乗って移民たちが続々とアメリカへやってきた。彼らが最初に見たアメリカが、自由の女神像だった。

「疲れ果て

 貧しさにあえぎ

 自由の息吹を求める民衆を

 我にゆだねよ」

アメリカ人の正義は「お金」だとも言う。

その成功者の例が不動産ドナルド・トランプだ。

トランプ氏を見れば、アメリカが分かるのだ?

じじぃの「人の死にざま_1682_ヘンリー・ソルト(作家・動物の権利)」

06:03

動物虐待ロシアサーカスの現実 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=TTlSUwTvjsQ

ヘンリー・ソルト『動物の権利』 Pets Journal

動物に権利があるという考え方は、ジェレミ・ベンサム功利主義道徳哲学に基づいたものです。

ベンサムに次いで動物の権利を主張した思想家はヘンリー・ソルト (Henry Salt, 1851 - 1939) です。

ソルトは1892年に出版した『動物の権利』の中で、「もし人間が権利を持っていれば動物も権利を持っている」と述べています。

http://pets-journal.com/henrysalt

『平和をつくった世界の 20人』 ジュニア新書編集部 岩波ジュニア新書 2009年発行

ヘンリー・ソルト みな兄弟という信念 (一部抜粋しています)

ヘンリー・スティーヴンス・ソルトは、1851年インドのナイニタールでデンマーク王フレデリック1世の血を引く家系に生まれました。ソルトが1歳の時、両親が別居しました。王立ベンガル砲兵隊の大佐であった父はインドにとどまり、ソルトと母はイギリスのシュロプシャーに移り住みました。そこでソルトはおおむね恵まれた、気ままな子ども時代を過ごしました。10代に入ると、彼は才気を発揮し始め、名門イートン校に入るための教育を受けました。家庭教師から、疑うという行為は間違っているかどうかと尋ねられたソルトは、間違っていないと答えました。そのときソルトは、自分が大人になって人生の大半を、社会の軌範を問い直すことに費やすことになるとは、ほとんど知る由もありませんでした。

15歳で王室奨学生としてイートン校入学を認められたソルトは、社交的で、友人を作るこつを心得ていて、寄宿学校での交友を大いに楽しみました。ケンブリッジ大学に入って初めて、ソルトは社会における倫理の重要性といった、もっと大きな問題について深く考えるようになりました。ケンブリッジ大学をトップにつぐ成績で卒業したあと、ソルトはイートン校に補助教員として迎えられますが、そこでは進歩的な考え方が事実上禁止されていることがわかり、失望しました。イートン校時代に、ソルトは同僚教師の娘、キャサリン(ケイト)・リー・ジョインズに出会い、結婚しました。

その後、ハワード・ウィリアムズの『食の倫理』を呼んだソルトは、すぐに菜食主義者となりました。もっともソルトが認めているように、菜食主義者は「当時のイートン校ではもちろん、まったくの変人と見なされていました」このように食習慣を変えた後、ソルトはそれ以外の文化的規範についても考えなおすようになりました。

      ・

ソルトが時間をかけて考えた結果、高度に文明化したといわれる自分の社会では、二つのタイプの野蛮さが猛威をふるっていることに気づきました。それは動物への暴力と人間への暴力です。彼は次のようなことに気づきました。

「動物への残忍さを黙認することで、私たちは、人間への残忍さを黙認する精神そのものを存続させているのです」

このつながりについて世間の認識を高めようと、ソルトはほんの執筆に取りかかり、それは生涯で40冊にもおよびました。ソルトの最初の著書『菜食主義のための嘆願(たんがん)』は、のちにインド独立の指導者マハトマ・ガンディへとつながり、ガンディが菜食主義者になる決意を強く促すことになりました。

ソルトのそのほかの著作の一つ、『動物の権利――社会の発展に関連する一考察』は、そのテーマで18世紀から19世紀に書かれたもっともすぐれた本といわれています。この本の中でソルトは、人間と動物は、感覚や感情を経験できる繊細な生き物として、不要な苦痛に悩まされることなく生きることが許されているはずだ、という自分の信念を説明しています。さらにソルトは、動物の扱い方と社会の構造を関連づけました。彼は、利益を生むことが主な目的である死にものぐるいの競争社会では、人間と動物の幸福は、たいていはその目的の犠牲となっていることに気づきました。最悪の虐待を禁じる法律はあっても、そうした社会では、人々は、本来思いやりをもって動物を扱うべきなのに、そうしたゆとりを単純い持てないし、また持つ気もないのです。

2016-05-22

じじぃの「波乱万丈・世界に飛び出した高校生の新たな出会い!ぼくはアメリカを学んだ」

06:08

 オカリナ

ぼくはアメリカを学んだ 感想 鎌田 遵 読書メーター

1989年、高校生活を中断してユーラシア大陸を横断。出会った日本人はみな「危険だから引き返せ」と言った…。

高卒後、アメリカへ「語学留学」、日本人ばかりの研修では何もならないと中退、放浪…。ニューメキシコ州で「あそこだけは行ってはいけない」と誰もが言うサンティアゴに逗留、話されるのはほとんどスペイン語…。

合衆国で行われているのは日本のような優しい差別ではない。紆余曲折あって「マイノリティー文化を研究したい」との願書が認められバークレー大学に入学…。

http://bookmeter.com/b/400500556X

『ぼくはアメリカを学んだ』 鎌田遵/著 岩波ジュニア新書 2007年発行

バークレーの日々 (一部抜粋しています)

1994年8月下旬、「辺境」のニューメキシコ。そのさらに「辺境」ともいえるエスパニョーラから、いきなり西海岸サンフランシスコにちかいバークレー市に到着したぼくは、まず大学のキャンパスの大きさに度肝を抜かれた。学生数3万強をかかえるこの総合大学は、まるで自然公園のようだった。全員が顔見知り、昼休みになれば、教授と学生がともに気軽に昼食うをとるエスパニョーラの短大とくらべると、すべてがあまりにちがい過ぎた。

大学のちかくにある編入してきた学生が多く住む寮に入って、友だちもふえていった。引っ越してすぐ、オリエンテーションに行くと、「バークレーは全米で一番優秀な公立大学です。あなたがたは選び抜かれた学生なのです。そうこそ」と歓迎される。ぼくはそれまで、大学にランキングがあることさえ知らなかったので、そんな話はピンとこない。ちなみにこの年に、カリフォルニア州外の短大から、バークレー校に編入したのは、ぼくともうひとりだけときかされる。

バークレーでは日本人の学生にもなん人は会った。日本の名門高校に通いながら、15歳のときからバークレーで勉強するのを夢みてきた学生もいる。エスパニョーラではどんな人に会っても大丈夫だったが、ぼくはこういう学生とはあまり話があわなかった。

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エスパニョーラの短大では「Never too late」、いまからでも遅くはないといわれていた。その言葉には、もう一度「やり直す」という意味あいがこめられている。一方、バークレーでは「Never too early」何かを準備するのには早すぎることはない、とまったく逆のことをいわれる。人生は「やり直す」ものではなく、最初から目標を定め、迅速にゴールすることが必要であるというのだ。ここでは寄り道している余裕はない。すべてのことを早めに準備しておかないと生き残れない。

自分の勉強方法をみつけられないまま、キャンパス内に20以上もある図書館を右往左往しているうちに、あっという間に最初の学期が終った。

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どうでもいい、じじぃの日記。

図書館の中で、アメリカを舞台にした軽い読み物がないか探したら、鎌田遵著 『ぼくはアメリカを学んだ』という本があった。

高校生が、中国パキスタンイランと放浪の旅に出かけ、そして、アメリカニューメキシコカリフォルニアへと向かう。

旅の途中で出会った人々とは「オカリナ」(ハーモニカみたいなもの?)を演奏し、友だちになっていく。

高校で落ちこぼれだった少年が、あの名門 カリフォルニア大学バークレー校2015年世界大学学術ランキング4位)に入学する。

キャンパス内に20以上もある図書館を右往左往しているうちに、あっという間に最初の学期が終った」

大学構内に図書館が20以上もある。すごいですねえ。

じじぃの「人の生きざま_642_デナム・ハーマン(生化学者・フリーラジカル)」

06:05

錆びた車

フリーラジカル説の父デナム・ハーマン博士死す (2015年9月14日) 健康長寿

昨年(2014年)11月、老化のフリーラジカル説の提唱者デナム・ハーマン(Denham Harman)博士がアメリカネブラスカ州オマハ市の病院で亡くなった。ヒトは100歳まで生きられると語っていた彼は、あと一歩で(98歳10ヵ月)その年齢に届かなかった。

フリーラジカル説は一般には活性酸素が老化の主原因であり抗酸化物質により、それを遅らせることができるはずだという説として知られている。

http://www.mnc.toho-u.ac.jp/v-lab/aging/column/20150914.html

マラソン選手のカラダは限りなく「鳥」に近い 2014/03/19

鳥は長寿といってもあまりピンとこないかもしれませんが、体の大きさを考えると驚異的に長いのです。セキセイインコは10年以上生きることも珍しくないし、鳩は35年も生きる種類があるそうです。

マラソン選手と一般の人を比べると、活躍するようなマラソン選手の多くは生まれつき「鳥型ミトコンドリア」の持ち主なんです。

http://mi-tsu.net/?p=1100

ミトコンドリアが進化を決めた』 ニック・レーン/著 みすず書房 2007年発行

ミトコンドリア老化説 (一部抜粋しています)

デナム・ハーマンは、生物学におけるフリーラジカル研究の草分けであり、1972年ミトコンドリア老化説を初めて提唱した。ハーマンの主張の核心は、「ミトコンドリアは、生体内における酸素フリーラジカルの主な発生源である」という単純なものだ。そんなフリーラジカルは破壊的な力をもち、DNAタンパク質、脂質の膜、炭水化物など、細胞を構成するさまざまな要素を攻撃する。これによる損傷の多くは、細胞の構成要素の世代交代によって、ふつうに修復したり部品を取り換えたりできるが、損傷のとくに起きやすい場所、なかでもミトコンドリア自体は、食事によって抗酸化物質を摂取するだけでは保護しにくい。したがって、ハーマンいわく、老化の速さと変性疾患の発症は、ミトコンドリアからのフリーラジカルの漏出速度と、損傷に対する細胞本来の保護・修復能力との複合的な要因で決まるはずなのである。

ハーマンの主張は、哺乳類代謝率と寿命との相関にもとづいている。彼はミトコンドリアのことをはっきり「生体時計」と呼んでいる。要するに、ハーマンによれば、代謝率が高い程酸素消費量が多く、そのためフリーラジカルの生成も増すのである。あとでわかるように、この関係は多くの場合正しく、しかしつねに正しいわけではない。この但し書きは些細なことに思えるかもしれないが、まる一世代にわたってこの分野全体を混乱させた。ハーマンは見事に筋の通った仮定を考えたが、それは正しくないことがわかった。残念ながら、彼の仮定は、ミトコンドリア老化説全体と深くからみ合っていた。この仮定が謝りだと説明しても、そのままハーマンの説の半鐘になるわけではない。しかし、「抗酸化物質で寿命を延ばせる」という彼の最も重要でよく知られた予言は覆されるのだ。

ハーマンによる合理的だが混乱をきたす仮定は、「ミトコンドリアの呼吸鎖からフリーラジカルが漏れる割合は一定」というものだった。その漏出は基本的に、呼吸鎖における電子の流れと酸素分子の必要性とが共存する細胞呼吸のメカニズムから、何の制御もなしに生じる不可避の副産物だ、と仮定したのである。ハーマンの考えによれば、呼吸鎖を流れる電子の一部が必然的に抜け出して酸素と直接反応し、有害なフリーラジカルを生成することになる。フリーラジカルが、生成量全体の1パーセントなどといった一定の割合で漏れるとすれば、漏出の総量は酸素消費の速度によって決まる。代謝率が高いほど、電子や酸素の流れは速くなり、実際に漏れる割合は変わらなくてもフリーラジカルの漏出が速くなる。したがって、代謝率の高い動物はフリーラジカルを速く生成し、寿命が短くなる一方、代謝率の低い動物はフリーラジカルの生成が遅く、寿命が長くなる。

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われわれが抗酸化物質の魅力に惑わされてきた理由は単純で、呼吸鎖から漏れ出るフリーラジカルの割合が一定でないためだ――ハーマンの当初の仮定が間違っていたのである。フリーラジカルの漏出はたいてい酸素の消費を反映するが、増減の調節ができることもある。言い方を変えると、フリーラジカルの漏出は、細胞呼吸によって何の制御もなしに生じる不可避の副産物であるどころか、制御され、だいたいは抑えられるものなのだ。コンプルテンセ大学(マドリード)のグスタボ・バルハらによる先駆的な研究によれば、鳥類が長生きするのは、そもそも呼吸鎖からのフリーラジカルの漏出が少ないからだという。結果として、彼らは大量の酸素を消費するにもかかわらず、それほど多くの抗酸化物質を必要としない。さらに、カロリー制限も同じような働きを示す可能性が考えられる。その際の遺伝子要因による変化はいろいろあるが、とくに重要なもののひとつは、酸素消費が同じぐらいあっても、ミトコンドリアからのフリーラジカルの漏出が抑えられることだ。ともに長寿である鳥類でも哺乳類でも、呼吸鎖から漏れ出るフリーラジカルの割合は減るのである。

2016-05-21

じじぃの「豚に真珠・猫に小判・ネコはおバカか?日本人の勘違い」

06:07

three cups and a ball game with a smart cat 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=qnOvSBBWuCA

ネコちゃん

猫好きな芸能人と猫好きのための本の話 2008-05-02 ニャンたル猫じゃ

「芸能人や著名人で猫好きな人」が気になって、ちょっとググってみた。

http://ameblo.jp/ottacs/entry-10093163415.html

『動物に魂はあるのか 生命を見つめる哲学 金森修/著 中公新書 2012年発行

ビュフォン――思考と反省能力の欠如 より

ビュフォンの犬と猫についての評言に少しだけ触れておく。特にそれぞれの冒頭部分が一般的導入として私の注意を引く。項目「犬」では、、形の優美さや身体の力強さなどは外的特徴として美しいが、人間でも外見よりも精神を重視するように、動物の中で最も優れた部分はその内的性質だという判断から、ビュフォンは筆を起こしている。動物の完全性はその感情の完全性による。犬は外見も美しいが、なんといってもその内的性質が素晴らしい。生来的には恐らく獰猛なのだろうが、主人に仕える犬は従順で賢い。思考の光をもつことはなくとも、感情のあらゆる熱をもっている。犬が存在しなければ、人間は他の動物をどうやって征服しえただろう、とビュフォンは感慨深げに語る。総じて、犬に対して彼は次々と賛辞を積み重ねるのだ。

それは項目「猫」での記載と対比される時、一層興味深さを増す。「猫」の冒頭部分には、こう書かれている。猫は、仕方なく飼っている不実な家畜だ。まだ幼い頃にはそれなりの親切さを備えているが、猫は本能的に悪意をもち、偽りの性質、歪んだ自然をもっている。それは年と共にますます酷くなり、教育してもただ隠されるだけだ。決然とした盗人だが、教育されるとより柔軟になり、詐欺師のように諂(へつら)いをする。

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『日本人の勘違い: 「バカボンのパパ」の鼻の下に生えているのは、鼻毛ではない!!』 びっくりデータ情報部/編 KAWADE夢文庫 2014年発行

「豚に真珠」は、もともとは日本のことわざではない より

どんなに価値あるものでも、その価値がわからない者にとっては何の役にも立たない――そんな意味のことわざといえば、「猫に小判」「馬の耳に念仏」「豚に真珠」などをあげる人が多いはずである。

しかし、このなかにひとつだけ、日本のことわざではないものがある。それは「豚に真珠」。この言葉の出典は新約聖書の「マタイによる福音書第7章」にある。つぎの文章である。

「神聖なものを犬に与えるな。また真珠を豚に投げてやるな。おそらく彼らはそれを足で踏みつけ、向きなおってあなたたちに噛みついてくるだろう」

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どうでもいい、じじぃの日記。

猫好きな人と犬好きな人では性格に違いがあるようです。

5月18日、日本テレビ トリックハンター 「無料動画を紹介」で、ネコちゃんが3つのカップにボールを隠して当てるカップ&ボールをやっていました。

猫が芸をするのってあまり見たことがないので、猫はおバカかと思っていましたが、そうでもないようです。

「猫は本能的に悪意をもち、偽りの性質、歪んだ自然をもっている」

猫って、どこかのくそじじぃと似ているところがあります。

5月20日台湾で、民進党蔡英文氏が総統に就任した。彼女は猫好きで「想想」、「阿才」という、猫2匹を飼っているそうです。

「豚に真珠」はイエスの言葉だそうです。

じじぃの「人の死にざま_1681_ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(作家・思想家)」

06:04

森の生活.wmv 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=R5WqBLdLnQ8

ヘンリー・デイヴィッド・ソローの言葉 インクワイアリー

「太鼓の音に足の合わぬ者を咎めるな。その人は、別の太鼓に聞き入っているのかもしれない」

http://www.a-inquiry.com/ijin/692.html

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー ウィキペディアWikipedia) より

ヘンリー・デイヴィッド・ソローHenry David Thoreau、1817年7月12日 - 1862年5月6日)は、アメリカ合衆国の作家・思想家詩人博物学者。

ウォールデン池畔の森の中に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2ヵ月間送る。代表作『ウォールデン-森の生活(Walden)』(1854年)は、その記録をまとめたものであり、その思想は後の時代の詩人や作家に大きな影響を与えた。

多くの著作に現在の生態学に通じる考え方が表明されており、アメリカにおける環境保護運動の先駆者としての評価も確立している。日本においてもアウトドア愛好家などに信奉者が多い。

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『平和をつくった世界の 20人』 ジュニア新書編集部 岩波ジュニア新書 2009年発行

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 思慮深い生き方 (一部抜粋しています)

ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、1817年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州にあるコンコードという小さな町で生まれました。「地上でもっとも恵まれた場所で、まさに時代の節目に私は生まれた」とソローは言っています。それはちょうど超絶対主義運動が始まる前のことでした。超絶対主義とは、コンコードとその近郊で始まったある理想主義的な考え方で、個性の大切さ、勇気、自己信頼、そして精神的な自立といった理想を掲げています。

物静かな鉛筆職人の父と奴隷廃止運動をすすめた快活な母との間に生まれたソローは、幼いころはきまじめな子どもでした。彼はコンコード周辺の森を探索するのが好きでそのためにどれだけ時間を費やしたかわかりません。静寂に包まれた美しいウォールデン湖を初めて見たソローは、たちまちそこに住んでみたいという夢に駆られました。いつかその夢がはかない、そこでの生活の記録がアメリカ文学の古典になることなど、幼いソローには知る由もありませんでした。

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ソローの静かな毎日が、ある日さえぎられました。幼児で町にいたとき、彼は突然逮捕され、牢獄に入れられたのです。それは人頭税の支払いを拒否したからでした。そうすることで政府への支持を断ろうとしたのです。政府奴隷の所有を認め、メキシコと戦争を始めていました。彼は、自分の支払った税金が、「人を撃つために人を雇ったりマスケット銃を買うことに」つながるのが耐えられなかったのです。囚人になったソローは、喜んで自分の処罰を受け入れました。そして友人のエマソンが、「ヘンリー、どうして君はここにいるんだ?」と尋ねたとき、ソローはこう答えました。「なぜあなたはここにいないのですか」牢獄で一夜を過ごしたのち、ソローは母と叔母が彼の同意なしに保釈金を払ってしまったことを知りました。彼は釈放され、何事もなかったように用事をすませてから小屋に戻りました。

2年2ヵ月と2日を過ごし、ウォールデン湖畔での実験は終ったと感じたソローは、自分の主要な発見を報告するため、そこを離れました。彼は記しています。

「この地上でわが身を養っていくことは、簡素に賢く生きさえすれば、苦難どころかむしろ気晴らしである。また、人が自信を持って夢に向かい、思い描いた人生を送ろうと努力すれば、今までの生活では思ってもみなかった成功に出会うだろう」

自分が発見したことを社会に知らせたいと考え、ソローはコンコードにもどり、講演やエッセイの執筆を始めました。ソローの著者『森の生活――ウォールデン』には、彼の森での生活で一部始終と、生活全般にたいする洞察が書かれています。この自然観察者にして哲学者であるソローの『森の生活』執筆の意図は、次のように書かれています。「私は失望の歌を書くつもりはなく、朝の雄鶏のように、止まり木の上で力強く声高々と亡き、隣人の目を覚ますことさえできればよいのだ」『森の生活』は、簡素で自覚を持った生活が自由の喜びに満ちたものであることを賞賛し、読者に「簡素に生きる」ことをすすめました。

個性と独立心の重要性を熱心に説いたソローですが、近隣の住民たちのことも気にかけ、重要な講演を行いました。ソローの最も影響力エッセイの一つ『一市民の反抗』は、抑圧的な政府批判し、個人の自由を賞賛しています。ソローによると、一市民の反抗とは、不幸な法律に臆(おく)することなく反対を表明し、自分がどうなろうとその結果を喜んで受け入れることで、不正を訴える行為です。このエッセイは、のちに、マハトマ・ガンディやキング牧師のような、非暴力運動の指導者たちに大きな影響を与えました。