じじぃの「人の死にざま_914_田中・隆一」

大杉事件 「死因鑑定書」 Takashi Wakasugi's Web-site
http://sites.google.com/site/twakasugit2/shiryo/osugi
知らないことばかり。佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野」その1 死んだ目でダブルピース
http://d.hatena.ne.jp/karatedou/touch/20110914
甘粕事件 ウィキペディアWikipedia)より
甘粕事件(あまかすじけん)は、関東大震災直後の1923年9月16日、アナキスト大杉栄伊藤野枝と大杉の甥・橘宗一の3名が憲兵隊に連行・殺害されたとされる事件。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされる。大杉事件ともいう。
軍法会議
甘粕大尉は、これは全て一個人の判断によるもので誰から指示された訳でもないと主張したが、当初からこの事件は憲兵隊や軍の上層部の関与が疑われていた。甘粕大尉は審理の中で、「個人の考えで3人全てを殺害した」から「子供は殺していない。菰包みになったのを見て、初めてそれを知った」まで何度も証言を変えており、最終的には部下の供述から「甘粕大尉が子供も殺せと命令した」と断定されている。また共犯の部下からは「憲兵司令官の指示により殺害した」など、軍の関与をうかがわせる供述まで飛び出した。
しかし軍法会議は甘粕の背後関係には立ち入らず、12月に甘粕大尉に懲役10年、森曹長に同3年、その他殺害に関与したとされていた部下3名に無罪の判決を下して結審した。
【その後】
甘粕大尉は3年弱、千葉刑務所において刑に服したが、1926年(大正15年)の10月にひっそりと釈放され、その後陸軍の官費で夫婦でフランスに留学し、後に満州に渡って満州事変に関わることになる。

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『新忘れられた日本人』 佐野眞一/著 毎日新聞社 2009年発行
歴史を書き換えた田中軍医の鑑定書 (一部抜粋しています)
歴史の真実は長い歳月を経て、やっと明らかにされることがよくある。今回はその好個の例として、田中隆一という人物を紹介しよう。田中は、大正12(1923)年の関東大震災下に起きた大杉一家虐殺事件で、大杉栄伊藤野枝、橘宗一少年ら3人の検死解剖をした陸軍衛戍(えいじゅ)病院の軍医(大尉)である。
事件当時は、田中軍医の名前も、検死解剖による「死因鑑定書」も一切表に出ることはなかった。それが表沙汰になったのは昭和51(1976)年のことだった。大杉一家虐殺事件から、実に53年後のことである。
「死因鑑定書」が発見されたのは、まったく偶然からだった。陸軍衛戍病院で田中軍医の後輩だった東京・目黒区在住の安田耕一という医師が、自費出版を予定していた本のなかで田中軍医の思い出を書くため、田中未亡人に問い合わせたところ、田中軍医が生前作成した「死因鑑定書」が、いまも未亡人の手もとにあることがわかった。
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この「死因鑑定書」で最も注目されるのは、次の記述である。
 <男女二屍ノ前胸部ノ受傷ハ頗ル強大ナル外力(蹴ル、踏ミツケル等)ニ依ルモノナルコトハ明白ナルモ前ニ説述セル如キ理由ニ依リ此ハ絶命前ノ受傷ニシテ又死ノ直接原因ニ非ズ、然レ共死ヲ容易ナラシメタルハ確実ナリ>
大杉事件の主犯とされた麹町憲兵分隊長の甘粕正彦(大尉)は検察官調書で、次のような供述を行っている。
――私が大杉の腰かけている後方から部屋に入り、すぐに右手腕を大杉の咽喉にあて、左手首を右手掌に握らせて後ろに引き倒しました。
大杉が椅子ごと後方に倒れましたので、右膝頭を大杉の背骨にあて、柔道の絞め手で絞殺いたしました。大杉は両手をあげて非常に苦しみ、約10分間くらいで絶命しました。そのあと、携えていた細引きを首に巻いてその場に倒しておきました。大杉は如何なるわけか、絞殺するとき、少しも声をあげませんでした。
書き写しているのも棟苦しくなるくらいむごたらしい場面である。もしこの供述どおりだったなら、甘粕は人間の皮をかぶった鬼である。凄惨な場面はまだつづく。
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しかし、田中元軍医が残したこの「死因鑑定書」によって、甘粕供述のウソが明白になった。大杉以下の3人は、甘粕の言う絞殺ではなく、明らかに殴る蹴るの集団暴行を受けて嬲(なぶ)り殺しにされている。甘粕は陸軍上層部に罪が及ばないよう、そして部下の罪を庇うため、自らスケープゴートになることを決意したのである。
2008年5月に出版した『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社)では、この見方を補強する決定的な証拠を提示しておいたので、興味のある方は、ぜひそちらをお読みいただきたい。
大杉らの「死因鑑定書」が発見されたのは、田中元軍医の妻が亡くなる直前だった。
「母が退治に保管していた木箱を整理していると、そのなかから、戦地で使った父の遺品が出てきました、それだけかと思っていたら、蓋の内側にこれが隠されていたんです。母はこの箱のなかに『死因鑑定書』が入っていたことを知っていたと思います。
母から聞いた話ですが、父は3人の遺体を東京憲兵隊の古井戸から引き上げるところから立ち会い、およそ20時間かけて解剖したそうです。母の話では、父は『死因鑑定書』を家に持ち帰り、徹夜で清書したそうです。母はそんな父の姿を見守りながら、蝋燭の明かりを絶やさぬようにしたということでした。その母も『死因鑑定書』の所在については、最後まで私にも言いませんでした」
田中元軍医の妻が蝋燭の明かりを徹夜でかざしたのは、震災のために停電で電灯の明かりがなかったためである。
大杉ら3人の解剖も蝋燭の明かりの下で行われた。そのときの解剖の状況は、田中元軍医の後輩の安田耕一医師が書いた『舎久と道久保』という自費出版本に詳しい。
<(田中)軍医は武装兵一個小隊が古井戸の周囲を警戒する中で、死体の発掘に立合ったが子供の死体をみてさらに暗然たるものを感じたとのことだった>
解剖は9月20日の午後3時30分に始まり、終ったのは翌21日の午前11時26分だった。
<死体の取り扱いには礼を失しないで死者に祈りを捧げ、非常に丁寧にあつかって、伊藤野枝の頭髪を解剖前にくしけずって整えたそうだ。終ったあと死体に薄化粧をするように看護婦に命ずることも忘れなかったということで立会われた法務官は死者に対する礼儀の正しさを見て、田中軍医に感激してお礼を言われたとのことだった>
田中軍医はその後、軍医を辞め、昭和の初め頃、東京の池袋で開業医を始めた。