「非モテ」の晒される性的視線(3)

 「革命的非モテ同盟」の古澤克大氏から新たに言及があったこともあり、もう少し「非モテ」と「性的視線」の話を続けてみます。(「電車男」の話は脇道に反れるので、とりあえず保留にしておきます。)
 まずは古澤氏の議論を引用しつつ、捩れを解いていくところから始めましょう。

確かに、女性からの侮蔑の多くは男性としての価値を否定するような形での侮蔑になるであろう。しかしながら、このような侮蔑は女性からのみもたらされるのではなく、広く男性から、また社会構造からもたらされるものである。直接的にはモテ男性からの「恋愛が出来ない男はダメだ」という言説や、遠まわしには「努力すれば恋愛出来る」といった言論の問題点は多くの非モテ論壇にて問題視されてきたものである。しかしながら、ここで一つ考えなければならないのは、女性からの視線は対象たる非モテが恋愛対象にならないという宣告であり、男性からの視線は恋愛が出来ないという事へのプレッシャーであるという部分の違いがあるということである。この違いを以って、女性が性的対象にしない事を宣告するのが性的視線とするならば、これは一種の性的視線と言えるかもしれない。(下線部は引用者)

 「男性としての価値を否定するような侮蔑」が女性だけでなく男性からももたらされる、という指摘は全く妥当なものです。問題はその次、「男性から受ける『視線』と女性から受ける『視線』の意味が異なる」という点にあります。
 ちょっと考えてみてください。「恋愛が出来ない男はダメだ」という言説を垂れ流す人物は全て男性でしょうか? 「努力すれば恋愛出来る」と言っている人間は男性ばかりでしょうか?

 すぐに分かる通り、「恋愛」を無条件に正当化するような言説を用いる人間は男女問わず存在します。女性からの視線もまた、男性からのそれと変わらぬ「恋愛が出来ないという事へのプレッシャー」なんです。そこに敢えて区分けするほどの差はありません。そして、これこそが「非モテ」にとって最も問題なんです。「恋愛対象にならないという宣告」なんて、それに比べればどうだっていいことです。

 そもそも「性的侮蔑」と「恋愛対象外宣告」は全く異なるものであり、後者を「性的視線」と捉えるのは誤りです。「男性としての価値を否定」するとか、「恋愛が出来ない男はダメだ」と宣告することは、いずれも性的な価値基準を自明としたものであるが故に問題なんです。
 このことをはっきりさせるため、Maybe-na氏のこちらの記事を引用します。

「性的にしか扱われない(扱わない)」ことそれ自体に問題はないと思います。問題は場所と状況にあります。

 たとえば、あなたが大変大きな性器を持った男性だとします。それで、職場ではどんなに業績を上げても(上げなくても)、あなたは「大きいですね」としか言われない。極端に言えばこういう状況ですよね、女性が置かれている(た)立場は。これはどんな人でもイヤですよね。

 さて。実はあなたはゲイで仕事を終えたあと有料系のハッテン場へ行きました。するとその日は「デカマラデー」だったため、あなたは割引料金でその日は楽しむことができました。これだったらどうでしょう。素直に喜ぶ人は結構いるんじゃないでしょうか。ハッテン場に行かないゲイもいますけど。ちなみに、こういうサービスをしている店は実在します。

 つまり、ごく当たり前の話ですが、オフィスという場所は、法律と契約の下に男でも女でもなく「社員」としての評価が求められる場所であるゆえに、そこで性的な評価を下すべきではないのです。その一方で、ハッテン場において「あなたは会社での営業成績がいいから割引します」とか「あなたは私と気が合うから割引します」とか言われたら、「ハァ?」ですよね。このあたりに問題があるのではないかと。

 つまり、性的な価値基準・価値規範はいつでも適用できるわけではなく、ある特定の場や条件に限定してしか適用できないものであるはずなんです。ところが、性や恋愛と直接関係のない「職業技能」や「人格」まで性的な基準(身体的魅力や恋愛経験)で判断されるとしたらどうでしょうか? セクシャルハラスメントラブハラスメントといった問題提起は、まさにこのような状況を問題にしているわけですね。

 「女性が欲望的な視線に晒される」問題と「非モテが性的なことで差別される」問題は、「性的に扱われたくない人を性的な価値基準で見る」という点で同根です。「非モテが向けられているのは欲望視線ではないから、女性が向けられている性的視線とは別物だ」と考えるのは早計ではないでしょうか。



 ところで、「性的侮蔑を含む『不当な性的扱い』」と「恋愛対象外宣告」とを峻別することで、非モテに関する議論の幾つかはすっきりしたものになります。例えば、一見対立しているように見える古澤氏とrepublic氏の「非モテ」への態度は、見方によっては互いに矛盾しない両立しうるものです。

 例えば、精神医学を専門とするid:p_shirokuma氏も脱オタによったid:Masao_hate氏も基本的には個人の救済というのが興味の対象であることは当然である。そして、その他多くの非モテ議論の参加者も、多くは個人的な問題やヒューマニティ(文学部)的な文脈での議論を中心としている。しかし、私は専門が政治学であり、その担保たる暴力を学んでいる。つまり、ヒューマニティに根ざした個人の救済ではなく社会変革を通じた解決という方法を議論する立場にある。(中略)個人的解決はその個人しか救えない。しかし、恋愛という価値を打倒すれば全ての非モテを救う事が出来るのだ。
そして、私は非モテ問題と総称されるものを「世の中ミンナで話し合うべきモンダイ」とするのにどうしても違和感があります。徹頭徹尾個人の問題だろうと。個人の問題であるからこそ脱オタなり非モテロなりといった手法が認められるわけだし、その解決方法を他の何か、国や社会制度などに解決を求めた瞬間に非モテは通常の「弱者」のカテゴリに回収されるのではないかと思います。

 両者は一見正反対のことを述べているように見えますが、これは扱っている問題が異なるからに過ぎません。すなわち、古澤氏が主に問題にしているのは「不当な性的扱い」であり、republic氏が想定しているものはおそらく「恋愛対象にされないこと」なんですね。前者に「正しい・正しくない」は言えても後者には言えません。

 大野氏がうまくまとめて下さっている「性的視線に敏感であるにも関わらず、女性に不当な性的視線を送る非モテ男性」の問題にもこのことは関わっていますが、ここにはもう一つ「性的アイデンティティの不一致」問題がからんできます。この問題については、次回に詳しく述べていきたいと思います。