寺社勢力の中世

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
日本文明の大半は中世の寺院にその源を持つ。最先端の枝術、軍事力、経済力など、中世寺社勢力の強大さは幕府や朝廷を凌駕するものだ。しかも、この寺社世界は、国家の論理、有縁の絆を断ち切る「無縁の場」であった。ここに流れ込む移民たちは、自由を享受したかもしれないが、そこは弱肉強食のジャングルでもあったのだ。リアルタイムの史料だけを使って、中世日本を生々しく再現する。

知らないことが多く、勉強になったが、読むのにひどく時間食った。あと先に網野さんの「無縁・公界・楽」を読んだほうが良かったかなあ、と少し後悔。
気になった部分の抜粋。
『だがこの当時、有力寺社は国司の直接の検断権(警察権)が及ばず、朝廷にとっても治外法権の場だったのだ。したがって犯人捜査は、寺社の検断組織に委任して間接的に行うよりない。幕府・朝廷が無条件に検断使、つまり警察官を入れることはできない。たとえ謀反人の捜査であってもである。寺社の警察官立ち入り拒否権、当時の言葉で検断不入(守護不入)の特権は、安土桃山時代まで維持される。』(P21)寺社の領が多いのにそんな治外法権が多かった、ということは当時の権力者、思っていたよりも権力小さいようだね。
『主として京都周辺、朝廷・幕府と日常的な接触があるところにありながら、国家権力が及ばない。この場の存在を保証した寺社勢力は想像を絶する強力な存在といえる。国家から独立して、このような異質な第三者勢力が存在したのは唯一中世のみである。』(P30)それほど大きな勢力なのに、いままであまり知らなかった。
『一四九六年、前関白九条政基は、自邸で自身が刀を執って、執事の唐橋在数を惨殺した。在数に借りた金を踏み倒すのが目的というのだからあまり同情の余地はない。軽い処罰ではあるが調停は彼の出仕を止めた。
 貴族のイメージが狂うのではないだろうか。武勇も殺人も、武士だけの話ではない。自力救済世界では、貴族・百姓・僧侶であろうと、だれでも必要とあれば武器を取る。』(P132)商業に限らず、権力が個人に関わらない自由だが法で保護もされない自力救済世界の中世。『殴り合う貴族たち』タイトルでちょっとと思っていたけど読んでみるか。
『山僧は六波羅武士の隣に住んで、年中角付き合っているようなものなのだ。嗷訴・神輿動座というと、近江の叡山がわざわざ京にやってくるような印象があるがそれは違う。山僧の多くはもともと京に住んでいるのだ。内裏も大内裏も荒廃してしまい、皇居も公家・武家屋敷も、不安定に移転を繰り返す中世の京は、不動の中心、叡山末寺祇園社の門前に広がる町なのだ。「叡山門前としての京」といわれるのはこのことだ。』(P65)そうなんだ、今まで「わざわざ京にやってくる」と思っていた。
『スカイクレーパー(摩天楼)がそびえ立ち、住宅街・商業地があり、周辺には貧窮民が集まる寺社境内、普通こういう場所をなんというであろうか。都市、というよりほかはないだろう。筆者はこの年を「境内都市」と名づけた。ピラミッドや古墳を見るのと同じ目で素直身にて欲しい。寺そのものが丸ごと都市なのだ。』『しかしこの簡単な発見の意味するところは大きかった。平安末期の都市は京・大宰府・平泉ぐらいで、少し遅れて鎌倉が現われる程度、日本は大半が農村からなる農業社会であるというのがそれまでのイメージであった。ところが大寺社が全て都市ということになれば、ギリシャ都市国家のように、平安末期の近畿地方は、南都北嶺ほか、東寺・醍醐寺・岩清水八幡宮寺・四天王寺など、無数の都市に満ちた都市社会だということになる』(P91)
自治を行う地域組織は、学会ではかつて「惣村」と呼ばれていた。中世は農業社会だという大前提による。だがこれは誤解で、そのほとんどは自治村落ではなく自治都市である。
 ヨーロッパ中世都市は、城壁の中に多数の農民を抱えており、面積の多くを占めるのは農業地域であり、中心部に限り商人・職人が集住していた。』『日本の都市も西欧の都市も、大半は農業的外観を持っているのだ。』『農村が実際は都市化しているのに名称が変更されず、「村」と表記されることはざらだ。都市を「惣村」と見誤ったのは、「『村』と書いてあればそれはすべて農村だ」という農業中心主義的思い込みに原因がある。江戸時代には「在郷町」という土地区分がある。文書上は「村」と表記されるが、実体は盛んに商売が行われる都市をさす。』(P225-226
自治組織が政治的実力を持った過程は、一般の歴史書に書かれているので省く。ただし「惣村」の農民闘争史として描いているけれども。』(P229)都市群立の中世というイメージは今まであまりなかったから面白い。「惣村」が都市だったというのにも驚き。農村の歴史より都市の歴史の方が面白そうだから、「惣村」の歴史の話にも興味がわいてきた。
『より本質的な話をするならば、寺社を、当時及び今日の国家が期待する宗教というごく狭い領域に押し込めることはできない。寺社(無縁所)はもともと国家によって包摂されえない部分。また、包摂された後に国家からやむをえずはみ出した部分をまるごと受け止める存在なのだ。このことは全ての罪ある人を救おうとする宗教の本旨にふさわしい。国家を山頂部分だとするならば、無縁世界は大きく広がる全体社会の裾野なのだ。』(P136)宗教的とは思われないかもしれないが、ある意味「宗教の本旨にふさわしい」中世寺社。
鎌倉幕府の主従制の核は鎌倉殿(将軍)である。鎌倉殿は源氏滅亡後、藤原頼経・頼嗣・宗尊親王と続く、かれらは形式上の主君にすぎず、実権は北条家得宗が握っていたと思われがちであるが、成人すればそれなりに御家人の信望を集め、反得宗の御輿となりえた。』(P165)鎌倉幕府得宗と鎌倉殿の関係は、他の時代の最高権力者と天皇みたいな感じかな?