文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

山崎正和の「ブログ・ツイッター」論」をめぐって。

 かつて「山崎正和」という地味な評論家がいた。劇作家という肩書も使っていたようであるが、劇作家とは名ばかりで、『世阿弥』という作品が目立つ程度で、実質的には何も活動していないに等しい自称・劇作家だった。また文藝評論家としてもそれなりに活躍していたが、同世代の江藤淳吉本隆明、秋山駿、柄谷行人等の影に隠れて、その存在感は薄く、『闘う家長ー鴎外論』という作品が目につく程度で、さほど活躍していたわけではない。しかし、一方では、京大系文化人としての山崎正和は、『不機嫌の時代』や『柔らかな個人主義の誕生』などに代表されるような文化・文明評論家として、ないしは大阪大学教授として、マスコミ、ジャーナリズム、論壇で、いっぱしの「一流文化人」という役割を演じていたように思われる。僕も、『闘う家長ー鴎外論』や『反体制の条件』などという書物は、それなりに熱心に読んだものである。しかし、僕には、山崎正和の書くものは物足りなく、いつの間にか興味を失い、眼中に入らなくなった。最近はその名前すら、ほとんど目にすることもなかった。やはり、ワープロの登場から始まりパソコン、ネット、ブログ、ツイッターへと続く、この文化革命的な「激変期」に、乗り遅れ、出番を失い、多くの古典的文化人たちと同様に消えて行ったように思われていた。しかし、ここに来て、「新聞」「テレビ」に象徴される古典的なマスコミやジャーナリズムの危機を代弁するような反動的役割を担って再登場しようとしているように見える。さて、すでにネット等で論じつくされたと思われるので、詳説しないが、読売新聞に掲載された「日本の改新」というインタビュー記事で、山崎正和は、自説らしい「中国脅威論」と「日米同盟強化論」を唱えた後で、新聞を擁護し、ブログやツイッターを批判して、次のような驚くべき反動的発言をしている。

もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、責任をもって情報を選択する編集が弱くなれば国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。(読売新聞2010年1月10日朝刊「日本の改新」)

 僕は、これはこれで、なかなか勇気ある発言であると思うし、おそらく時代の変化に対応できず、乗り遅れた老文化人らしく、堪忍袋の緒が切れて本心を曝け出したものだろうと、いささか同情を禁じ得ないのだが、しかしそのあまりにも反動的な「時代錯誤」「アナクロニズム」には、やはり辟易するほかはない。そもそも、ネットやブログによる情報メディア革命が進行中の現在、「ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。」とは凄い言葉である。山崎正和は、どういう人を「知的訓練を受けていない人」と考えているのか。まさか山崎正和本人のことではあるまいが……。あるいは逆に、「知的訓練を受けた人」とはどういう人なのか。そもそも山崎正和自身は、どちらなのか。「知的訓練を受けた人」とは、「大学教育」を受けた人か、あるいは新聞やテレビ、雑誌などで言論活動に従事している、いわゆる有名文化人のことなのだろうか。むろん、山崎正和が専門とするらしい文学や戯曲の世界に限って言っても、そんな粗雑な論理が通用するはずがない。不可解である。そもそも小説や戯作を書いてデビューしてくるような新人は、「大学教育」とは関係ないし、「知的訓練を受けた人」かどうかもわからない。「ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。」と言うが、新人作家や新人劇作家、あるいは新人批評家とは、そしてその予備軍たる文学少女や文学青年たちとは、小説や戯曲、批評などを、身近な書籍や文庫本などの普及によって手軽に読むことを覚え、そして自らも「発信」する喜び、つまり創作する喜びを覚えた人たちだったのではないのか。むろん、僕に言わせれば、それはなんら批判されるべきことではなく、むしろ歓迎すべきことなのである。また、「責任をもって情報を選択する編集が弱くなれば国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。」というが、そもそも権力者に媚び、権力者の走狗となった特定の奴隷文化人、つまり御用文化人による隠微な「編集」こそが、まさしく「国民の知的低下」の根本原因なのではないのか。そして、さらに「ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。」というようなマスコミ・ファシズムを擁護するかのような反動的な論理展開は、いかにも古典的文化人の自己欺瞞的な弁護論であり、これまで古典的文化人が受けてきた既得権益の擁護論にすぎないのではないのか。マスコミや文化人が主導・独占する情報空間が「国民の知的低下」を防ぐ、なんて、山崎正和のような古典的な文化人がそう思い込んでいるだけの妄想にすぎない。たとえば、ラテン語という非大衆的な、つまり特権的な言語によって一部の文化人に独占されていた文化が、「フランス語」や「英語」「ドイツ語」など、いわゆる「俗語革命」によって、大衆の手に渡り、その大衆の言葉によって、いわゆる近代文化革命が引き起こされたのではないのか。だからこそデカルトは、ラテン語ではなく、当時は下品な大衆の言葉であったフランス語という俗語で、『方法序説』を書いたのである。我が国における平安時代の「ひらがな」の登場、あるいは明治維新直後の「言文一致体」「標準語」の登場も同じである。いずれも言語の大衆化である。ところで、山崎正和は、同じインタビュー記事の中で、中国については、こういう批判を展開している。

周から漢の時代に形を整えた中国文明の特徴は、第一に官僚支配だ。この帝国の官僚とは「漢字を知っている人」のことで、詩文に優れることが求められた。普通に使うものだけで数万字ある漢字を覚え、使い方に洗練させるのだから、文人官僚は特権階級を形成し、農民と隔絶する。この点、文字がアルファベットだったために人民の多くが読み書きでき、社会が階層を超えて流動し、縦につながったローマ帝国と異なる。

 もうお分かりのように、山崎正和の「ブログ、ツイッター」批判と「新聞」擁護は、中国的な「漢字支配」と「文人官僚支配」と同じ論理構造となっている。つまり、山崎正和本人は気づいていないようだが、「ブログ、ツイッター」による「国民の知的低下」批判の論理とは、中国的な「漢字支配」と「文人官僚支配」擁護の論理なのである。換言すれば、「ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり……」というような「知の大衆化」が、中国的な「漢字支配」と「文人官僚支配」、つまり山崎正和が擁護する「文化人帝国主義」と「マスコミの情報独占体制」を打破していく可能性を秘めているということなのである。いずれにしろ、僕は、こういう「ブログやツイッター」的な「知の大衆化」的なものを批判し、「新聞」「テレビ」的な文化人帝国主義的なものを擁護する山崎正和的言説の中身に対してよりも、今頃、こういう言説を恥も外聞もなく堂々と話せる文化人・山崎正和の「知的鈍感さ」に驚きあきれるほかはない。山崎正和のような存在こそ、古き良き御用文化人的存在なのであり、しかも、そういう御用文化人は、いいか悪いかは別として、今まさに、濡れ雑巾のようにマスコミからも使い捨てられようとしているのである。つまり、こういう言説こそ「知的低下」現象そのものであると言うべきだろう。換言すれば、山崎正和の危機感は、古典的メディアとしてのテレビ・新聞の危機感、あるいは古典的文化人としての己自身の危機感でしかない。むろん、僕も、無条件にブログやツイッターの登場を歓迎し擁護しているわけではない。「国民の知的低下」を防ぐためには、ブログやツイッターを楽しむだけの大衆とは別に、一流の思想家や学者の存在が必要だと考える。しかし、たとえば、昨年、『世界史の構造』を刊行した柄谷行人のような思想家・文学者が、山崎正和のように、ブログやツイッターは「国民の知的低下」をもたらす、と考えているとは思わない。むしろ、柄谷行人は、ブログやツイッター的な情報革命の成果の上で、それらを取り込みながら思想展開していると思われる。山崎正和は、ブログやツイッターによる「国民の知的低下」を心配するわけだが、そんな暇があったら、柄谷行人のように、誰の追随も模倣も許さないような、卓越した思想的、学問的な仕事をやり遂げ、それを国民の前に提示し、つまり国民大衆にお手本を見せてみてはどうか。無理だろうが……(笑)。というわけで、山崎正和のブログやツイッターに関する反動的とも言うべき批判的言説は、やはり「負け犬の遠吠え」でしかあるまい。



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